湾を巡る
第144歩: 目印
「落とした!?」
しっぽ髪の大きな声がした。
転げるようにしてヨゾラが
カンに任せて目を向ける。
アルルだ!
波のすれすれを飛び越えて、向こうへと離れながらじわじわ上昇している。だけれど見えるのはアルルだけだ。
「来てくれぃ! カモメと旦那がおかしい!」
怒鳴り声。どぅ! と海の塊が船を叩き、塩辛い水が目に入って痛い。
「しおしお! 塩ですよぅ!」という声を引き連れて、重い足音が船尾へ向かう。
ヨゾラは四つ脚に力を込め、すぐそこの黒い鉄塊──大砲に体を押し付けて踏ん張りながら、遥か向こうに波をかき分ける波を見た。
「アルル!」
空飛ぶ魔法使いは、もう声が届かないところまで離れてしまっている。
翼を開き、大きく魔力の呼吸を繰り返すアルルへ向けて、赤い目玉を持つ波が。
「アルルくんもういい! 戻って!」
悲鳴のようなシェマの声。アルルの高さが、波の高さに届かない。
──あたしが守るから。
波が白く割れる。
帆柱の上、狂ったようにごんごんと打ち鳴らされる鐘の音。
「取り舵! 砲門開けとけぃ!」
船長の怒鳴り声、容赦なく引っ張られた背中、入れ替わりで大砲に飛びつく男たちの乱暴な足、見えなくなる海。何もかもひどくゆっくりな一瞬が終わる前に、ヨゾラは声なく叫んだ。
ぬたりとした暗い同心円。
黒い水塊を白く割って出てきたものが、アルルにはそう見えた。目の粗いヤスリのような外縁と、内側の暗い穴。「翼」は今まさに打ち下ろすところだ。急降下にも、左右への錐揉み反転にもつなげられない。
ヤスリのように見えたのは、歯。内側の暗い円がひときわ広がり、外側が楕円に歪んでいく。
可能性が、見えなかった。
──死ぬ?
ひどくゆっくりな一瞬。
その終わりに、背骨の真ん中あたりが繋がった。
がんばるから、と聞こえた気がした。
背中が急激に引っ張られ、無造作に放り投げられるような感覚。高波の日に、少女を抱えて飛んだ時の感覚。
同心円が視界を下に外れ、その生き物の、貝類に覆われたへら状の頭が目に入ったと確かに思った。次に見ていたのは目まぐるしく入れ替わる黒の海と灰の空で、背から全身へ走った衝撃と痛みと虚脱感が何だったのか、理解できた頃にはもう、アルルは海に落ちていた。
「あいを」
なにを、と言おうとしたケトの声は、口にくわえたヨゾラのせいで言葉にならず、あるじは甲板囲いを乗り越えて跳んだ。
麦藁色のしっぽ髪が尾を引いて消える。暴れるヨゾラが口から落ちる。
胴を伸ばして覗き込んでも、どれがあるじの立てた飛沫なのかもうわからない。かわりに、沖合で巨大な白蛇のような胴体が海へずるずる吸い込まれていくのを見た。
シェマは宙に身を躍らせてから、高い、と思った。大きく息と魔力を吸い、固く目を閉じ身を丸める。
水が痛いというのも、飛び込んでからわかった。だが、そんなことよりも、後悔のほうがよほど大きかった。
行かせるんじゃなかった。止めておけばよかった。激しく跳ね飛ばされたアルルの姿は、幼いころに兄が放り投げた人形に似ていた。
生きていて。おねがい。
海水が冷たく身を締め付け、海中でなお激しいうねりが上下を奪う。甲板から最も近くにあった誰からも見られない場所で、小さく発した声は泡になる。
猫は、いつの間にかいなくなる。
暗く激しい海中から、場所のかけらが瞬く魔法の水底へ。かけらから漏れ出る光に眼を細め、必死でシェマはアルルに繋がるかけらを探す。あの子が着ていた服は何色だったか、暗く濁った海中の人を見つけられるか──。
魔法で心拍が上がっている。この場所にも空気はない。アルルを見つけたら、もう一度同じ魔法を使わなければならない。
大丈夫。私ならできる。焦ってはだめ。
自らに言い聞かせる。探しつづけ、考え続ける。
目印が欲しい。あの時みたいに光でも出してくれれば。
あの時。学院の実験棟裏手で、「糸」の先を光らせ得意げに膨らんだ後輩の低い鼻。
──見ろよ、シェマ──
そう、そうよ。
目印。
アルルは魔法で飛んでいる最中に突然跳ね飛ばされ、海に落ちた。それはつまり魔法が途切れたということだ。魔法を失敗すれば、魔力はものたちに持っていかれる。
マジコであるならば。
──もったいないんじゃない?
五年前に、そう声をかけた。
アルルが魔法を失敗するのは、何度も見た。「世にも珍しいフィジコ」のアルルが何度も練習して、失敗するのを見てきた。いつも、後輩の取り込んだ魔力は盛大に体から漏れ出ていた。
アルルが魔力を取り込む範囲も量も、あの頃から常人離れしている。
「猫は」
魔力、視える者には碧い光として痕跡を残す細かな粒子が、ひときわ濃く尾を引く場所のかけらを
「どこにでも現れる」
選び取る。そこへ。碧い光の根元へ。
水にもみくちゃにされながら、手を放してしまわぬように歯を食いしばった。アルルは動かない。掴み返してこない。
がんばりなさいよ! 今、連れていくから!
船上の使い魔から再びの魔法を引き出し、そして、絶望感に襲われた。
見られてる。
見られていると感知する、これも猫の魔法の一環だ。見られていないからこその「いつの間にかいなくなる」だ。
ヒトや使い魔の視線がこの魔法を阻害することは知られていた。しかし、たとえ野の動物であっても、強く明確な意志があれば同じことができるとは知られていない。
すなわち、喰らわんとする意志である。
一度は獲物を見失ったアンケリアスが長大な身体を翻し、食欲をそそる魔力の出どころを見ていた。
海中で鎌首をもたげ、今度は逃がさぬよう慎重に近づいて行く。
直径にして二
予想外の出来事と苛烈な潮流に翻弄されながら目を開き、シェマは赤い光点が水中に揺らぐのを見た。
あれが、と思うやいなや、光点の主が鎌首のバネを解放する。
同時に彼女の背を、力強く抱く腕。
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