第143歩: アンケリアス
舟の櫂にかけた「力場」を操り、帆柱や帆桁の間に張られた索具をかわしてアルルは上昇していく。平たく削られた櫂の
見覚えがある。何かの奇跡のように思えた女の子だ。
なんでそんな所に。
「おおい! すげえな頼むぜあんた!」
四角帆の上、見張り台から南部系と
丸木に両脚両腕を巻きつけて、帆柱にかかる旗を巻き込むようにしていた。手が旗地の布をくしゅくしゅとせわしなくいじっている。
真っ白と言っていいほどの色白だが、顔立ちは掘りの浅い南部系だ。その小さな鼻の頭にしわを寄せて、泣くでもなく、怯えるでもなく──不満そうだった。
ヨゾラは思った。
手紙を読んでくれと頼まれたけれど、読みおわる前にアルルは帰ってくるんじゃないかな。
木の棒に掴まって、魔法使いが上へ上へ昇っていく。
縦長ハマハッキがさっき、ハニをつれてアルルの下あたりまで走って行った。
「当番中の者は手を止めるんじゃあないと言ってるだろうが!」
さっきのヒトがまた怒鳴っている。
丸まった紙を広げるのは難しい。ヒトみたいな手が欲しい。
「手伝うわ。ケトは上を見ていて」
カケスを空に放ったしっぽ髪が、小舟の平らな所に手紙を広げてくれた。そう大きくもない紙を、鈍く光る鉛筆の字がびっちり埋めている。
とにかく、頼まれたんだ。読まなくちゃ。
──おぼえなくちゃ。
ふわり。
うすい黄土色の紙から、黒い文字が浮き上がったような感覚を覚える。
前足で押さえている方が下だったから、手紙の最後のあたり、「アル坊」という字が真っ先に飛び込んできた。その手前を次に読んだ。
気をつけろ、と書いてあった。
気をつけろアル坊。
「やぁだぁ」と女の子の拗ねた声が届いて、ヨゾラのヒゲは、船にかかった魔法がぶつんと切られたのを感じた。
「やぁだぁ!」
叫んだ童女の姿が、アルルの目の前から急速に遠のく。
何が起こったのか理解できなかった。
遠ざかったかと思うと、白い髪をなびかせ、こちらへ猛烈な勢いで──
「このっ!」
急上昇。帆柱の先端がすれすれを行き過ぎ、
何が起こった? かもめの止まり木は?
考えを纏める間もなく、帆柱が、長さの分だけ波の揺さぶりを何倍にもして帰ってくる。
「きゃぁぁぁああ!」
甲高い歓声をあげて童女が、きらきらした笑顔で海の一点を見つめている。その子を狙って振り出したアルルの「糸」は的を外して垂れ下がる。歓声が過ぎて、帆柱が振れる勢いのまま、真っ白な身が宙高く、飛んだ。
「ハニちゃん!」
甲板に尻餅をついたままハマハッキが叫び、蜘蛛が八脚を
──ハニは間に合わないですよぅ。
落ちてきたら網を張って受け止める。そのつもりで帆柱を登っていたが、自ら身を投げるのは予想していなかった。
ハニは網梯子に阻まれる。
アルルの影が白い影に追いつく。
アルルは櫂にかけた力場を解いて手を離す。
粘り気をもった空気が体をなぶる中「翼」の魔法を構え、真っ白な女の子を抱え込もうと両腕を伸ばす。
ヨゾラは小舟から飛び出して、揺れる甲板に転ぶ。頭の中に、手紙の文字が見たまま浮かぶ。文字列が意味を結ぶ。
──悪いアル坊、ドゥトーの奴にもきいてて遅くなった。
──お前もさすがに知ってんだろうが、海竜の形は亀だ。亀にしちゃ首が長いが、まぁ亀だ。で、竜って聞いたら何を思う? どっちかっていやトカゲか蛇だろう。
むかし絵に描いたときにもちと思ったんだわ。こいつのどこが竜なんだってな──
アルルの手に、ひやりと冷たい感触。
届いた!
「翼」を開く。歯を食いしばる。背筋を張る。
「翼」から返る力で、背中がはがされそうに痛む。
──まんまるドゥトーが言うにはな、
手放した櫂が、矢のように海へ潜る。
女の子の目が一瞬見えた。
白い髪や赤い瞳を除けば、どこにでもいそうな子どもの顔。
その子どもから、くすぐったそうな声が。
──あの漁師が薫製をやったのはな、六○二年のマンジァ様のお祭の頃だ。
「どきどきする。どきどきするわ」
アルルの胸をかすかに震わせた振動は、秋の終わりを思い出させた。小さい頃に森で遊んだ時の、どうということのない枯れ葉の手応え。
──で、その白い奴に良く似たものがいる。「星落ち」以降に南の外海を荒らし回ってる凶暴なやつだ。
今の海竜が、湾の波や流れに関係してるのも確かなんだろうがよ、荒れ海の原因は、大亀だけじゃないんじゃないか? 海竜って呼び名は、誤解からついたもんじゃないか?──
少し握っただけで形をなくし、粉々になった茶色い落ち葉の手応えと、かき抱いた子どもの手応えが、同じだった。
──別々のものを見て、同じもんだと思いこんだんだ。沖合いの鎌首だの、光る目玉を持った波だのの話に対して、亀の話は圧倒的に少ねぇ。こいつぁ単純に、
アルル自らのつけた勢いが全身を海へ押し付けようとする。抗い、荒れうねる大波をすれすれでかわし、ジャケットの、前身頃を濡らして上昇するアルルの腕の中には、何もなかった。
──気をつけろアル坊。当時と同じ状態に海が戻ったってんなら、ひょっとするとそこに別のがいるぞ。悪名高い南楼群島の
ひときわ大きな波の山に、ふたつの赤い光点が見えた。
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