第145歩: お前が
──ぶん!
海面に落ちてしばし気を失い、目を覚ます直前までアルルは、また湖に落ちたのだと錯覚していた。「翼」の魔法を作っていた頃の、
意識を呼び戻したのは、背中に食い込む人の指と、背骨から流れ込む猫の魔力の温もりだ。
喰われかけた。打ち下ろした翼がぶつかって、折られた。今、海の中で──じっとしてたらまずい!
確かな策があったわけでもない。藁をも掴むような思いでしがみついた相手が、誰なのかもわかっていない。ただただ必死に、でたらめに、流れ込んでくる魔力を力場に変えて、炸裂させただけの──ぶん!
衝撃がアンケリアスの開いた口を叩き、局地的に変わった海水の密度は縦横の渦を生んで、互いにしがみつく二人の魔法使いを巻き込む。
巨大な生き物を倒すには全くもって足りない一打ち、ヒト二人にとっては、体がバラバラにされそうな渦。
しかしフィジコの一打ちは、狩りの成功を確信していた
猫はいつの間にか──
視線の外れたわずかな隙を捉えて魔法を発動させたのは、ひとえにシェマの執念であった。
かけらが瞬く。再び、場所のかけらたちが。
目の前がちかちかと瞬くのはしかし、かけらのせいだけではない。
苦しい。息を吸いたい。
無数のかけらに使い魔の気配を求める蜂蜜色の瞳に、見慣れた長い毛足の背が見えた。船内のどこか、人目のない場所へいち早く動いてくれたのだと見て取れた。
ケト、ケトのところへ。
そのかけらへ意識を伸ばしたつもりでいた。
しかし、息を止めたまま潮流に抗い、酸欠で朦朧としたまま選んだかけらには、灰色一色の濃い霧が映っていた。
一面灰色の視界に、音が、熱が、帰ってくる。
重さが、帰ってこない。
空気を感じて息を吸い、冷たさに咳き込んだ。同時に、魂が背中へ抜けるような恐怖が巻き起こる。
身を切る風が猛烈な勢いで吹き付け、上着の袖が、筒袴の裾が、音を立ててはためく。冷たい粘り気が体にまとわりついて満足に動かせない。
首をすくめてこらえながら、薄く目を開く。シェマの腕力ではどうにもならないほど強い力が、アルルの体を引き離していく。必死で腕をつかみ、離れまいとする。アルルの手が、痛いほどにつかみ返してくる。
灰色の霧が晴れ、眼下に小さく、ウ・ルーの街並みと往還船が見えてシェマは理解した。
雲を破って腹ばいに落ちているのだと。
帰還に失敗したのだと。
三度目の魔法は、またもや阻害された。
「どこにでも現れる」の直後に、誰よりも早く気づいて見上げてきそうな者には、心当たりがあった。
ヨゾラさん……!
ヒトに幼い恋心さえ抱く不可思議な黒猫。その猫に抱いた予感を裏づける事象。
アルルの居場所を察知している。
よりによって今!
あまりの不運、あまりに皮肉。最良手を封じられて、シェマは絶望に飲まれそうになる。
まだ。まだ何かあるはず。きっと、きっと何か手段があるはず……!
風に冷える体が思考を鈍らせ、落下の恐怖が焦りを生み、焦りは視野を狭めて、失敗した、という思いだけが胸を占めていく。
まだ! まだ!
突然に、腕を引き寄せられた。真剣な黒い瞳があった。粘つく空気の上を滑って後輩の顔が近づき、頭を抱きすくめられた。
後輩の吐く息がほんのわずかに暖かい。
「大丈夫だ。そんな顔すんな」
耳許で、そう聞こえた。
不覚にも滲んだ涙を風が容赦なく吹き飛ばし、その涙も、次のアルルの行動で引っ込んだ。
空中でくるりと反転させられる。うつぶせで落ちていたのが、仰向けになり、風で脚がはねあがる。
アルルが脚を器用に振って釣り合いを取りながら、空中で器用にのしかかってくる。妙にごそごそ動いて細かく体勢を整える後輩に、焦りと困惑と羞恥とが混ざって顔が熱くなる。
「ちょっと! なにしてるの!?」
うなる風に負けじと上げた声に、アルルが耳許で返してくる。
「シェマ、ごめん!」
不安にしかならない。
「どうして謝るのよ!?」
直後、体に重さが帰ってきた。
アルルには自負がある。
この世の誰よりも落ちるのに慣れているという自負だ。
空で頼みの「翼」は折れて使えず、猛烈な速度で落下している状況でアルルを落ち着かせたのは、この自負と、シェマが作った落水までの時間と、何より彼女の、叱られた子どものように怯えた顔だった。
「大丈夫だ。そんな顔すんな」
脚の「尾羽」を使い、胴回り腕周りの筋肉も駆りたててシェマを仰向けにひっくり返す。冷たい風に歯を食いしばって呼吸を整え、彼女と自分の重心がなるべく重なるように微調整を加えていく。
皮肉な事に、海に落ちて飲んだ海水が塩切れを防いでいた。
「ちょっと! なにしてるの!?」
説明している余裕はない。ただ、先に謝っておいた。
「シェマ、ごめん!」
「どうして謝るのよ!?」
シェマの悲鳴をよそに、魔法に集中する。彼女をつぶしてしまわないように。
自分自身に「力場」は効かないが、他人の体であればなんの制約もないのだ。
フィジコ、発動。
「うぐっ!」
耳許でうめき声があがった。シェマがむずかるように身じろぎするのを、後ろに回した手で押さえる。二人分の体重をいくらか上回る重さが、シェマにかかっているはずだった。
華奢な拳が背中を叩いてくる。
「アルルくん、重、いっ……息がっ……」
「シェマで減速をかけてる。後で怒ってくれていいから、今は我慢してくれ!」
最初は玩具のように見えた往還船がみるみる近づく。少しずつ落下の勢いを殺し、船の進行に合わせ「尾羽」で微調整を加えながら落ちていく。
白い怪物の位置はわからない。見失ってくれていることを願うしかない。襲われたら力場を操って逃げるとしても、急激な負荷にシェマの体がどうなるか予想がつかなかった。
甲板に降り立てるほどには減速しきれない。船との水平距離はおよそ二十五歩。
帆柱の見張りが沖合を指差し、何かを伝えようと怒鳴っていた。
甲板の上、小さく黒い点、ヨゾラ。
点にしか見えない黒猫と、目が合った。名前の候補そのいちになった緑の瞳。
──そんな顔させてすまない。
二人の体を立てて、シェマの頭を庇う。
海面までは数秒、フィジコを解除。
「つかまれ! 歯ぁ食いしばれ!」
耳許で鳴り続けた風の轟音が、水の濁音に変わる。急速に暗転する視界。潮流に再び奪われる上下の感覚。
──お前が力をくれるから
呼吸のできない水中でなお、アルルの魔力はつきない。
──お前がそこにいてくれるから
フィジコ、再発動。
──俺は帰れる。
シェマをきつく抱え、ナワバリの主に向けて、アルルは海中を飛び出した。
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