第146歩: あたしのところへ
ヨゾラは跳んだ。
予感があった。
「邪魔だ猫危ねぇぞ!」
真後ろから怒鳴り声。呼吸も荒く緊張した面持ちで大砲を囲む水夫の一人が、威嚇する黒狐のように歯をむき出していた。
その手にはくすぶる縄を挟んだ棒。
牙をむき出して言い返す。
「ここじゃなきゃダメなんだっ!」
「そうかよ吹き飛んでも知らねえぞ!」
黒狐の水夫が唸り声を吐き捨てた。
海へ目を向ける。気づけば船の揺れは治まっていて、魔法の気配がヒゲを撫でる。
ヨゾラの意識はまだ、アルルの背中に触れている。アルルがこっちを見てる。
ここだ。ここだよ。
「アルル」
──アルルの居場所はカンでわかる。
しっぽ髪が船から飛び出した頃、アルルはめまぐるしく揺すられながら沈んでいた。いろいろな板や脚が邪魔で海は見えなかったけれど、それだけはどうしようもなくわかった。
甲板に伏せて爪をたて、「がんばる」で繋がったアルルが、なんとか海から出てきてくれるのを願った。
だってアルルは魔法使いだ。きっとまだ知らない魔法をたくさん持ってるんだ。
がんばれ。がんばって。がんばってよ。お願いだよ、アルル、あたしがいない所で死なないでよ。わたしたちのところに帰って来てよ。
他に何も出来なかった。
伏せたお腹からじくじくと、黒くて粘っこい何かが染み出して身体を沈めて行く、そんな気持ちがした。
アルルとの繋がりが切れて、見失ったのはそのすぐ後。
何も見えず、何も聞こえなくなったほんの数秒。その数秒は、今までのどの体験よりも長くて、恐ろしかった。
だから再びアルルの気配を感じたとき、その気配は星に思えた。
灰色の空から星が落ちてくる。
もう一度アルルに繋がった。けれど魔法使いは「翼」を開かない。落ちてくる場所も船から離れていた。
なにやってるのさ!
四つ脚を踏みしめても、駆け出す先はない。見守るしかできない。だけれど豆粒みたいなアルルと目が合って、すっ、と落ち着いた。
翼を開かない理由はわからない。けれど、アルルが諦めていないことはわかった。アルルの意識が、自分を見ていることもわかった。
あたしにもできることがふたつある。
ヨゾラは跳んだ。
予感があった。
──甲板囲いの上、ナワバリの主として、精一杯の力を込めて命令をくだす。
「帰ってこい! あたしのところへ!」
ばしゅっ!
低い軌道に水の尾を引き、海から飛び出るヒト二人。
ひとつ、アルルに帰り道を示すこと。
魔法使いたちが海原に数回跳ね、しぶきを上げて波間を滑ってくる。
それを追って大波をかき分ける、
「来やがったな赤目玉!」
声は黒狐のものではなかった。船が出る前に演説をしていた、怖い船長のものだ。
ヨゾラは再び振り返った。
「あいつが来るぞ!」
言い捨てて飛び降り、大砲の後ろに離れて位置を取る。アルルが近づいてくるのがわかる。
ふたつめ。
「あがれぇえっ!」
アルルの魔法を強くすること。
アルルの気配がぐんぐんと近づき、上ってくる。
よん。
船長が右手を上げた。水夫たちの体にぐっと力が入る。
「進路そのまま、火蓋を抜け! オレの合図で点火、訓練通りに用意!」
「点火用意!」
さん。
大砲のお尻に刺さった栓を、水夫の一人が抜く。
「あるじ!」
どこに行っていたのか、ケトが巨体を揺すって駆けてくる。
ヨゾラには予感があった。
あいつはアルルを追っかけてくる。
に。
生き物が他の生き物を襲う理由なんて多くない。狩りの時や、ナワバリを守る時だ。
どっちであっても、決着がつくまで追うのをやめたりなんかしない。
こっちが強いぞと、わからせなければならない。
いち。
いまここでいちばん強いのはたぶん、大砲だ。
撃ち方は、この船の人がずいぶん前に教えてくれた。
「点火ぁ!」
「点火!」
船長の声を黒狐が復唱。
来た!
甲板囲いの向こうから、飛び出る魔法使い。
黒狐の手にした棒の先、くすぶる縄が大砲のお尻へ降りていく。
その頭上を越えながら、叫ぶアルルとシェマの声。
「撃てぇ!」
「撃って!」
しゅっ、と吹く白煙。
ぎょっ、と出る同心円。
轟音。
往還船七号の大砲が火を噴き、鉛の砲丸が
灰色斑の頭が大きくのけぞり、海から剥がされるように長大な胴が露わとなる。その胴を波となって衝撃が駆け抜け、荒れ海に飛沫が走る。
「猫は倍々に膨れる!」
驚くほどふわふわとした毛の中、アルルの目は、甲板囲いの向こうに遠のいて沈む
「死んだかと思った」
耳許からシェマの声がした。首に回された腕に力がこもった。
「ごめん、痛かったよな」
「違うわよばか。きみが、死んじゃったかと思ったの」
呆れたように眉を下げてシェマがその身を起こし「
そのシェマの向こうに、ヨゾラが立っている。横たわったアルルと顔の高さが揃う。
足音もなく、しかしつかつかと近寄ってきた黒猫が、前足でアルルの鼻をはたいた。
「いてっ」
アルルが何か言う間もなく、今度は顔に小さな頭を擦り付けてくる。
「ペブルさんの手紙、読んだぞ」
「おう」
「あと、死んじゃったかと思ったぞ」
「わるい」
「それから」
口を引き結んで、尖らせて、拗ねたように目をそらしてヨゾラが言った。
「おかえり」
アルルは身を起こした。
「──ただいま」
緑の目だけがこちらに向いて、猫がこくんと頷いた。そのまま、今度は真っ直ぐにシェマを見た。体のわりに長い尾を膨らせ、ヨゾラが一度深呼吸をした。
「アルルを、助けてくれて、ありがとう」
シェマが蜂蜜色の瞳でヨゾラを見つめ、ひとつ頷く。
「取り込み中すまぬが、そろそろ降り給えよ」
ふわふわの毛から声がした。
慌てて尻をどけた所で、船長の怒鳴り声がした。
「気を抜くな! 第二弾込めろ!」
弾かれたようにアルルは立ち上がり、立ち眩みがしてよろける。海鳴りを割って再びの怒鳴り声。
「誰でもいいが魔法使いさんがた、今度はなんなのか教えちゃくれねえか!?」
砲の直撃を受けてなお倒れず、海原に生えた巨大な
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