第125歩: でもさぁ、シェマ
「やだやだやだ! あたしは降りないぞ!」
と馬車の奥に伏せるヨゾラの鼻先に、アルルは肩掛け鞄の口を開けて突き出した。
「だだをこねるなよ。置いてっちまうぞ」
置いてくぞが効いたのか、黒猫が口をむぐむぐさせ、すごすご鞄に潜りこむ。
「あるじ、私も鞄に入れてくれて良いのだぞ?」
「
もう一組のやりとりを脇に、不審がる御者へは適当な言い訳を述べておいた。
「こいつは……大きな屋敷が怖いんです」
御者のおじさんの目と鼻の穴が大きく膨らむのを見て、まぁそうなるよな、とは思った。
ライリ・トルキス=ファー。
ファー夫人。
先月に別の町で会った、出来すぎな名前の女性。
「ファー夫人のファーって、やっぱり
「知らないわよそんなこと」
出されたお茶に口をつけ、シェマが「あつっ」と顔をしかめた。少し待つようにと通された客間で、やたらと体の沈み込む革張り椅子に座らされて、アルルはどうにも落ち着かない。
「きみたち、ファー夫人と何かあったの?」
お茶を冷ます魔法使いの瞳が、壁に掛けられた絵に向いた。部屋に煌々と灯された無臭ランプに艶めいて、件の夫人の絵が納まっている。
屋敷に入ってから三枚目だ。
この絵は若い頃のものなのか、前に見た姿ほど太ってはいないし、
「何がってほどでもないけど、先月エレスク・ルーって町で偶然会った」
「あたしは散々な目にあったぞ」
椅子に置いた鞄からくぐもった声がする。
「らしいんだよ。俺と会う前の事なんだけど、毛皮を取られそうになったんだとさ」
「なにそれ!」
シェマがもう一度壁の絵をちらりと見て、おそらく毛皮を確認した。
「それで
発音は良く、意見は手厳しく、アルルは笑って誤魔化す。
「ケトきょーも気をつけた方がいいぞ」
ヨゾラは顔を出さないことに決めたらしい。
アルル自身も、ファー夫人に会った時にひとつ嘘をついている。ヨゾラを見られたら面倒くさい事になりそうだ。
「我が身に何かあればあるじが黙っておらぬよ」
「自分でなんとかしなさい」
しっぽ髪の魔法使いが使い魔にも厳しめの一言を飛ばすのを聞きつつ、アルルもお茶に手を出した。その香りにも、薄い黄緑色にも覚えがある。
「ヨゾラ、あの時と同じお茶だぜ? いらないのか?」
「……がまんする」
黒猫が強い意志を示したところで、客間の扉が遠慮がちに叩かれ、話題の中心人物──ではない男が姿を現した。
ひょろっとした人だった。
四十代半ばか後半か、もさもさした黒い巻き毛は左右が妙にちぐはぐで、小さな目がきょときょとと動いている。仕立ての良い
この年齢の使用人にしては、立ち居振る舞いがおぼつかなく思える。その口がゆっくりと開き、そこから、なかなか音が出てこない。
ノックの音に立ち上がっていた魔法使い二人と、やってきた男との間で、どうにも珍妙なにらみ合いが続いた。
口火をきったのは、シェマだった。
「──このたびは、お招き戴きありがとうございます。西部魔法協会付き、シェマ・クァタです。平服で失礼します」
腰の前で手を組んで右足を半歩下げ、堂に入ったお辞儀をしてみせる。
「その使い魔、ケトである」
「魔法使い、アルル・ペブルビク=ララカウァラです」
アルルも普通に頭を下げた。
頭を上げると、先ほどの男が困惑したように手を左右に振っている。
「ああああ、私は大した者ではありませんから、どうか、どうか楽になさってください」
やはり使用人だったのか、とアルルが思ったところで男は名乗った。
「マーラウス・ファーです。この家の──当主という事になっております。──急にお呼び立てしたのにお待たせしてしまって──申し訳ありません」
ところどころ間の開く名乗りの後で、マーラウスが、にへらっ、とふやけた笑顔を見せた。
「できたら──妻も同席で、手料理など振る舞いたかったところ、でしたが」
まさかの手料理。
妻、つまりファー夫人は高波と海竜の件で今日は顔を出せないだろう、との事だった。
柔らかな絨毯の廊下を案内されて気づいたが、マーラウスの左手首に包帯が巻かれているのが袖口から見えていた。膏薬のツンとした臭いもして、歩き方もぎこちなかった。
通された場所は、思い描いたような白布のかかる長テーブルの会食堂ではなく、小ぶりな、それこそアルルの自宅とそう変わりないような大きさの部屋だった。こちらが普段使いの食卓なのだという。
普段使いとは言っても、調度品は見慣れないものばかりだ。白磁の食器が並び、その金の縁取りにアルルは気を取られる。どうやって作るんだろう。
「お連れさまは、二匹と伺っておりましたが」
テーブルの向かい側で、執事の男が静かに声を発した。
「ここにはいるんですが、俺の連れは鞄の中に潜っています。知らない人がいるとすぐに隠れる臆病者なもので」
「そんなことないぞ!」
鞄から声。話をややこしくするな。
「──ええ、魔法使いの連れですんで、もちろん喋ります」
怪訝な顔の執事と、目をしばしばさせるマーラウスへ説明しながら、使用人が注ごうとした食前酒をアルルは固辞する。
「もったいない」
左隣から小声で囁かれた。どういうわけか先輩魔法使いはこういった社交の場に慣れている。考えてみれば、お互いの生い立ちについてはほとんど話した事がない。
アルルのグラスにトウマツの薫る冷水が注がれて、マーラウスの長めの礼から会食が始まった。
絵を描いていた、とマーラウスは言った。
ガザミ腕の公園で海を描いていて、高波に巻き込まれたのだと。
「もう──だめかと思っていたのですが──突然地面に放り出されまして、泡の壁と、お二人が波に立ちはだかっていらっしゃるのを、目にしました」
ちらりと左隣を見ると、シェマも食事の手を止めて神妙な面もちで聴いていた。頬がかすかに朱に染まっているのは、ここまでで三杯飲んだスグリ酒のせいだろう。
「あとは、どなたかに『走れ』と激励されまして──あとは無我夢中で」
「『逃げろ人間、走れ』であるな」
ケトが再現してみせた。
「ええ、ええ、そうです! あなたの言葉でしたか!」
あの時、泡の壁から転がり出てきた人の誰かが、マーラウスだったのだ。
三皿目が運ばれてくる。赤身の燻製だった。つるっとしたやつだ。
マーラウスは猫たちの食事も見繕ってくれていた。食欲には勝てなかったのか、足元のヨゾラも
ケトは壁際に寄って堂々と食べている。
「あの時ですね──」
当主の話は続く。
「あのまま、波に飲まれたままだったら──私は妻を置いて逝くことになっていたでしょう。その──後をね、昨日一日、考えたりしたのです。海送の倉庫でも船でも、多くの従業員が被害に遭いまして──見つからない方もいると。妻が私の遺体を探す事になっていたら──ねえ。そんな姿は──」
小さな目をしょぼしょぼと瞬かせ、屋敷の当主はスグリ酒を飲み干すと、素早く目許をぬぐった。
「──失礼。あなた方には、感謝してもしきれないのですが、せめて──お礼はどうしても差し上げたく、こうしてお忙しい所をお呼び立ていたしました。私の命を救っていただいて、心から、感謝いたします」
テーブルの向かいでマーラウスが深々と頭を下げた。後ろの執事も揃って下げた。
「それは──」
下がったまま一向に上がらない頭を前に、シェマの口調には困惑が滲む。
「──どうか、頭をあげてください。それは、過分なお気持ちです。私は……結局、あの時なにもできていません」
彼女の指がグラスの細い脚につかまっていた。
「あの時は無我夢中で、逃げるのが精いっぱいで、誰かを助けようだなんて、そんなつもりも余裕もありませんでした。お気持ちは、ありがたいと思っています。ですけど、あの魔法は──」
そして、言葉を探して口をつぐむ。
何もできなかった、アルルもそう思っていた。
でもさぁ、シェマ。
「あれは、俺たちの身を守ろうとした魔法でした」
アルルはシェマの言葉をさらった。
「だから、あなたの命を救ったなんて、そんな大それた事をしたつもりは、彼女には無いんだと思います」
だけどさ、シェマ。
「亡くなった方を、俺もたくさん見ました。あともう少し早く入り江まで行っていれば、だとか、ひょっとしたら高波そのものをなんとかする方法があったんじゃないか、だとか、いろいろ考えます」
もっと上手く出来たかもしれないけどさ、シェマ。
「それでも、偶然だったかもしれないですけど、彼女の魔法がマーラウスさんの助けになったのなら、俺は喜びたいです」
左隣を見る。まるく見開かれた蜂蜜色の瞳へ向けて、アルルは声をかける。
「何もできなかったなんて、言うなよ」
少し間があって、彼女の瞳は少し揺れた。
先輩魔法使いが自分を納得させるみたいに小さく頷き、もうすこし大きく頷き、最後にしっかり頷いて、グラスに残るスグリ酒を一気にあおった。
「飲みましょう」
ん?
「おや──イケるクチ──ですか?」
そうなるのか。
「お酒もお料理もとても美味しいです。命の、というお言葉は、ごめんなさい。私には大きすぎて、受け止めきれません。この場を設けてくださっただけで十分です」
酒飲み二人のグラスが再び満たされ、屋敷の当主が、にへらっ、と先ほどより緩んだ笑みを見せた。
外が騒がしくなってきたのは、五皿目、ハッカ橙と松葉糖を使ったぷるぷるとした甘いものが出てきた頃合いで、アルルの足下ではヨゾラがじたばたと鞄に潜り込んだ。
騒がしさを縫って足音が近づき、ノックもそこそこに扉がひらいて、過剰に通りのいい、甲高い声がした。
第一声は
「遅くなって申し訳ございませんわぁ」
であり、第二声は
「あら、あなた?」
だった。
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