ライリ・トルキス=ファー
第124歩: お礼をしたい
囁き猫。
道を歩いていると、突然に声がする。
振り返って声の主を探しても誰もおらず、猫があくびをするばかり。まさかこの猫がと話しかけても返事はなく、気のせいかと歩き出すとまた声がする。
たとえば、
──いいのか? しないのか? それでいいのか?
そういうもの。
「は?」
しっぽ髪の眉がぎゅっと寄り、目がつり上がり、口の端がゆがんだ。上の歯が少し見えてる。怒ってる。
「囁かれたから、私の部屋に石を投げたってこと?」
「そんなことを言ってた、って話だよ」
言い訳するみたいにアルルが返す。アルルの膝の上からヨゾラはもう一度シェマを見る。
しっぽ髪は薄茶色の目をギラつかせて、不愉快そうに喉の奥で唸った。元気には、なったらしい。
「囁き猫なんて、意味ありげで意味のないこと言ってるだけなのに。バっカみたい」
バ、の発音がとても強かった。
「そうだけど──俺を
「そうね。そうね。ごめんなさい」
しっぽ髪がひとつ深呼吸して、怒り顔を引っ込めた。
魔法使い二人とその連れを乗せて、馬車は上下左右に小刻みに揺れる。窓から入ってくるガス灯の
「でも結局口頭で注意して、そのまま無罪放免になったんでしょ? おかしいと思わない?」
顔は戻っても語尾がとんがったままだ。
「ハニが糸でふん
「そうじゃなくて。高波で人手不足だからって適当なことやってんじゃないわって事。
「うむ?」
大猫がうたた寝からから覚める。
「……なんで
「ふむ、まあ、であるな」
意味ありげで意味のない言葉。
こんもり猫が怪我をした事は、昨日、寝る前にアルルに話した。シェマがどうやって治したかも伝えたけれど「使い魔だからな」と寝言みたいな声が返ってきただけだった。
馬車は揺れる。街の西側、二区へ向けて。
「なぁ、シェマ。ライリ・マーラウス海送の社長の旦那って誰だったんだろうな?」
アルルがそう訊いた。
「さあ? 社長は有名だけど、旦那さんの事はあまり聞かないわ。私とアルルくんの両方を呼んだって事は、ガザミ腕にいた誰かじゃないかしら」
そこから、しっぽ髪が少し声を落とす。
「なにも、こんな時に呼びつけなくてもいいのに」
午前中は静かなものだったけれど、今日の割り当てを終えてアルルが戻った頃にはちょっとした騒ぎになっていた。
受付が満員で、高波が、海竜が、魔法使いがと、洗濯のおばさんが言っていたのと似た事を口にして詰め寄る人々。
小綺麗な身なりのおじさんが、よく通る声でライリ・トルキス=ファーの使いだと名乗った時のロッキの顔は忘れられない。
ライリだと? ライリ・マーラウスの人間じゃないか! ユリエスカ新聞です! どう落とし前をつけるつもりだ! あれからずっと海が荒れてるが、何か関係あるのか! 社長は何か言ってましたか!?
一気に大きくなった騒ぎを見かねてロッキが使った魔法は、かもめの一声、と言うらしい。
大きな声を出して、周りを静かにさせる魔法。
ヨゾラのヒゲもピクリとなったので、魔法で間違いない。
「子猫を連れた南部系の男と、大きな猫を連れた東部系の女の魔法使いさんを探しておりますが、どなたかご存じありませんかね」
騒ぎが収まってから、身なりのいささか崩れたおじさんがそう言ったので、一行は馬車にこうして揺られている。
アルルの膝から伸び上がり、ヨゾラは窓に前足をかけた。思い思いの色に塗られた街の建物に、橙色の薄膜がかかって流れていく。
「でも良かったじゃん。お礼をしたいって、ありがとうってことでしょ? みんな魔法使いの事わるく言うんだもん、あんなにがんばってたのにさ」
外を流れる街並みに、見覚えのある女の子がいた。
ガス灯の柱の下に立って、白い髪に橙色を照り返しながらにんまり笑って、赤い瞳がヨゾラを追っていた。
心臓が、どきっとした。
「ヨゾラさん」
「へっ!?」
突然呼ばれて、思わず後ろに転がってしまう。
すぐに立ち上がっても、どきどきどきどき、と胸が奇妙に高鳴るのが止まらない。しっぽ髪は一瞬だけ怪訝そうに片眉を上げ、すぐに真顔に戻って言った。
「何か欲しい物ある?」
「え? え?」
「あるじ?」
「シェマ?」
その場の全員が声をあげた。シェマが切れ長の目を丸くして、二度まばたきした。
「そんなに……驚かなくても。昨日のお礼をしたいだけよ」
「俺にじゃなくてか?」
「ありがとう」
「──どういたしまして」
しっぽ髪がにっこりして、アルルは憮然と引き下がる。
「欲しいもの……? たべものとか?」
ヨゾラは訊いてみた。
「何でもいいわ。しっぽに
「それは興味ないけど」
素直に答えた。
シェマが唇をひと舐めし「じゃあ」と隣の使い魔をちらりと見て、濃いめの眉を跳ね上げる。
「ブラシ」
またどきっとした。
「ほしい! なんでわかったの!?」
いま言われるまで、自分でも忘れていたのだ。でも確かに、ブラシは欲しかった。
しっぽ髪が目を細めて満足げに笑みを浮かべる。
「ケトがね、好きなのよ。ブラシかけてやるとお腹見せるのよ? 王族のくせに」
「俗物には見れぬ高貴な腹であるぞ。名誉と思い給えよ」
「私はあんたの国の人じゃないのよ」
シェマがケトの顎の下を指の腹でなぜた。ぐふ、ぐふふふと喉を鳴らすケトをそのままに、しっぽ髪がヨゾラに目を向ける。
「あなたたちが帰るまでに良さそうなのを見繕っておくから。楽しみにしていて」
「うん。へへ。……にへへへへ」
「そんなにブラシ欲しかったんなら、俺に言えば良かったじゃないか」
なぜかアルルが面白くなさそうだ。
「ちがうよ。えっと、ちがわないけど……へへへへ、くれるっていうのがイイんだ。なへへへへ」
「だらしない顔しやがって。シェマ、ありがとな」
シェマが首を振って、ゆるゆると麦藁色の髪が揺れる。
「たのしみってこれかぁ。ありがとう、しっぽ髪」
ヨゾラがそう言うと、シェマが瞳をまんまるにしてから横を向いて、後ろ頭から垂れ下がるしっぽを自慢げに振ってきた。
甘くていい匂いがした。
しばらくして馬車が止まり、重たそうな扉が開く音につづいて、また進み出す。
「すっごいなこのお屋敷」
窓から外を見てアルルが感嘆のため息を漏らし、それにシェマが続く。
「ファー夫人の一代記よね。まだ五十にもならないそうよ」
え?
「え?」
声にでた。
「いま何て言ったの?」
「……まだ五十にならないって」
「その前」
「ファー夫人の一代記」
アルルも聞いちゃいけないものを聞いたみたいな顔で固まっている。
「なに? どうしたの?」
「ああ、いや、な。ライリ・マーラウスの社長って、女性だよな。名前何だっけ?」
馬車が止まる。
シェマがアルルとヨゾラを探るように覗き込み、危険なものでも呼び出すかのように慎重に答えた。
「たしか、ライリ・トルキス=ファーだけど……?」
ねぇアルル、あたしすごくヤな予感がするよ。そうヨゾラが言おうと思った所で、馬車の戸が開いた。
戸を開けたおじさんの肩越しに、見覚えのある大扉が見えた。
犬に追い回されて、袋詰めにされた思い出の地だった。
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