第156歩: 海を目にして
ロッキ・アーペリは死を思った。
「かもめの止まり木」が人を船の上に留め、船を水の上に留める。しかしこの魔法は外から来る物に対して、何の力も持たない。
海竜の引き連れた波は往還船の丈を越え、左舷後方からのしかかる。
うつ伏せに甲板へ押し付けられ、水圧に胸が詰まる中で使い魔と共に魔法を維持する。
質、量ともに体験のない負荷だった。クービアックと二人で支えてなお、消耗がすさまじい。
風の代わりに水を孕んで帆は引きちぎられ、あるいは帆柱ごとなぎ倒された。
見張り台の水夫は、船から投げ出されない代わりに、そのまま船に叩きつけられた。
魔法は波の勢いに抗い切れず、往還船が入り江の中央へと流される。
波が船を通り過ぎた。
船は止まらない。
帆の大半も千切れて見通しの良くなった視界の先、ぽつんと浅く円形に盛り上がる小島が見えた。
「舵を切れぇえ! ぶつかるぞぁあ!」
船首からそんな悲鳴が聞こえる。
「おりゃあああ!」
銀毛の蜘蛛が、尻から粘性の網を吹く。
ハマハッキの使い魔が必死だったのは疑いようがない。それでも網は後部甲板を覆うのが限界だった。
直後に衝撃が走り、船は、船首に取り付けられたアラモント鋼の
蜘蛛の網に守られなかった水夫たちが飛ばされ、転がり、方々に身を打ちつける。
ハマハッキが、使い魔の名を呼ぶ。
「上だ!」
とすぐ近くで声がした。
粘液と血糊が混ざった液体が、最も近い帆柱に沿って、べちゃりと落ちて行った。
帆柱に沿って視線を上げると、帆柱と支索に
波とは、寄せては返すものだ。
この状況。もう一度、あの波に耐えられるのか。
ロッキ・アーペリは死を思った。
アルルの腕の中、シェマが咳き込みながら必死に「上」と言った。
アルルは顔を上げて気付き、「上だ!」と叫んで立ち上がろうとし、弾力のある網に阻まれた。
腹の下で、もぞもぞとヨゾラが動いて這い出そうとしている。
アンケリアスは今にも落ちてきそうだ。もはや最後のあがきだとしても、あの巨体が下で暴れれば巻き込まれる。
フィジコで網を引きちぎろうとするが、蜘蛛糸は想像以上に粘り強く、伸びはしても切れはしない。
「ハニ! 網を切ってくれ!」
「ごめんなさぁい、すぐにはぁ無理ですぅ!」
ふざけんな! とこの時ばかりは思った。
海竜が船を飛び越えたとき、ハマハッキは仰向けに倒れた。
腰が抜けたからだ。
船が苦手で、乗船してからずっと、情けない姿を晒した事には自覚がある。
だが今回は腰が抜けたおかげで、帆柱にひっかかったアンケリアスにはいち早く気づいた。そして、そのすぐ下にぶら下がる帆布にも。
得意な魔法を活かせると直感した。虫がらみのものとは相性がいい。
もうアンケリアスは死に体で、動きさえ封じられればと考えた。
「ハニちゃん!」
愛しい相方を呼び寄せ、考えを伝える。上着の胸ポケットにしまってあったおやつをもたせる。
アルルが網を切れと叫ぶのに、すぐには無理だとハニが返す。
「たのむぜ!」
「はいな!」
銀毛の蜘蛛が跳んだ。アンケリアスの、すぐ下にはためく帆をめがけて。
「おらおらおらおらぁ! 仕事だ眷属どもぉ!」
ハニの口調が変わる。頼もしい子だぜまったく、と思う。
帆にとりついた銀毛の蜘蛛が尻を降るたびに、真っ白な蜘蛛の子がわらわらと湧いて出る。
蜘蛛の子が散って、帆布を下から一斉にほどいていく。
「──感謝するぜえ、アルルさん」
呟いてハマハッキは、ハニのおやつに呼びかけた。
相方が好きで、大事に取っておいた最後の一匹。一匹あれば
「おいでませい、ハリハリムシ!」
呼びかけに応えて、ハニの咥えたムシから数千本の針が湧く。それぞれが布地の海を渡り、帆布の糸を拾って巨大な縫い物が始まった。
ムシが千切れた縦帆でアンケリアスを包み、縫い止めていく。ハマハッキの見事なハリハリムシの扱いに、アルルは仕事が終わると感じた。
はるか前方、ハイオルト島の岸壁に大波がぶつかって、高く高く飛沫を上げる。
しかし波とは、寄せては返すものだ。
「引き波が、来ます! 止まり木は、もう持ちません!」
ロッキから絶望的な叫びが上がる。
「動ける者は何かに掴まれい!」
船長が這いつくばったまま、冷徹な指示を下す。
「そのまま、動かない、で」
先輩の声。下を見ると、仰向けのまま、鼻血で汚れた顔のシェマが、苦しげに小さく魔力を吸った。
アルルが身を離してできた隙間を、シェマの左手が潜る。その行く先に、黒いこんもり毛玉がいる。
「猫の爪は、鋭い」
シェマの指が毛玉をなで、ふつふつと、糸だけを切った。
「我があるじ、見事である」
「ごめんね、ケト。私たちだけ、逃げるって、言えないの」
「何を謝るのか」
自由になった
「立派な心がけであるよ」
アルルが立ち上がりざま、袖でシェマの鼻血を拭う。顔をしかめて彼女が嫌がる。
「ちょっ……」
「鼻血んときは、うつ伏せだ」
先輩の反応は見ずに、網を踏み越えた。いつかの吊り床に使われた網と似て、足に貼りついてはこなかった。
「ハマハッキさんはうなぎを!」
叫んで、後部甲板から中央甲板へ飛び降りる。甲板の水たまりを跳ねさせて、ケトと共に船首へ走る。
ヨゾラが鞄から顔を出した。
「どうするのさ!?」
「壁で止める!」
「どっしり構える!」
「……できるの?」
「わからぬ!」
「やるしかないだろ! がんばってもらうぞ!」
小舟の置いてある辺りを過ぎる。
倒れて動けない水夫を、まだ動ける水夫がどうにか船に固定しようとしている。
一人、南部系の男の怪我が酷い。折れた手足の骨が皮膚を突き破っている。
大砲に腕を挟まれ、悲鳴をあげる男がいる。
「アルル殿!」
足を止めかけて、大猫に釘を差された。怪我人を通り過ぎ、ひっくり返った小舟を飛び越え、アルルは走る。甲板の排水路を流れる水が、場違いに煌めく。
「手え貸してくれ!」と叫ぶ水夫に「済まない!」と叫び返し、アルルは船首に立った。
島の岸壁から返る大波が、午後の陽に輝く。
アラモント鋼の轅が長く伸び、仄碧く光る。
座礁した小島さえも陽光をきらきらと照り返す。
突然、ヨゾラが鞄から飛び出した。
「アルルっ、アルル、アルルっ!」
「なんだよ、どうした!」
「あの、あのね! あた、わた、わたし、あたし? とにかく考えがあるよ! ここでならできる!」
ひどく焦ってヨゾラがまくし立てる。
アルルも混乱し、焦る。さっきまでおとなしかったクセに、なんだってんだ!
ヨゾラが問答無用で繋がってくる。「がんばるから」の時のように。
「海は水だろ!? わた、あた、止められるよ! アルルは塩食べて! キミの身体も必要なんだ!」
「なにをっ、お前、ヤミヌシとはわけが違うんだぞ!?」
「来るぞアルル殿!」
ケトが毛を逆立て、四つ脚を踏ん張る。
「だめだヨゾラ時間がない。力を貸せ、壁を張る!」
魔力を取り込む。ちかり、ヨゾラの瞳が光る。
「い、やだっ!」
「いい加減にしろヨゾラ!」
「こんな時に争うでないぞ!」
「できるって! キミの壁じゃ無理なんだ。今のをかわしても、次だって来る! 信じてよ!」
じゃあ命令でもすれば──!
アルルは言いかけて、飲み込んだ。
自分の命令に力があることを、こいつは良く知ってる。
命令しない。それが、お前の意志か。そんなに強く、お前は望むのか。
「──できるんだな?」
「なめんな!」
黒猫が尻尾を打った。
船の舳先に駆け、巨大な水壁に向き合う小さな黒猫の背が、藍にも紫にも滲む。
「悪い、ケト卿。あいつが失敗したら、頼む」
「お互い苦労の絶えぬ事であるな」
ケトの軽口が終わらないうちに、ぎゅん、と胃の腑を抜かれるような感覚が、アルルの体に走る。
ガザミ
二区のお
中央区で髪結いの仕事を終えたフラビーが。
海を目にして、泣いた。
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