第155歩: シェマ

 迫り来る魔力の塊はシェマにもえる。後輩の警告も理解している。

 頭の中で、時折、火花がちりちり散るような感覚がある。体の芯が、熾火のように熱い。

 

「止まり木を出しますよ!」

 ロッキが船長へ宣言した。

「頼む!」

 許可を得て、次の宣言。

「シェマさん、霧海豚キリルカを離します!」

 シェマは頷いた。

 霧海豚キリルカがロッキとの接続を離れれば、やがて霧は晴れる。そうなれば、シェマの魔法は拠り所を失って切断され、失敗の代償を持って行かれる。

 視界が徐々に開けていく。それに反比例するように、黒い影の輪郭が希薄になっていく。


 だけど、まだ霧はある。もう少し。せめて少しでも、弱らせないと。


「シェマさん、魔法を解いて!」

「持ってかれるぞ、シェマ!」

 宿舎の二人が必死に声をかけてくる。

 これでダメならもう策はないというのに。

 もっと知識があれば、出航前に気付けたかもしれない。

 もっと実力があれば、今頃決着していたかもしれない。

 頭蓋の内に、ぱしん、ぱしんと音を立ててが離れようとするのを、シェマはどうにか引きとめる。霧が薄れ、大波と大亀が視認できる。魔法を解けば、アンケリアスは自由になる。

 その後は? とシェマは自問する。 

 海竜も迫る中で、至近距離に手負いの怪物。

 その後は?


 ──また、負けるの?


 そう思ったとたんに、猛烈な悔しさが襲ってきた。

 早く。

 はやく。

「はやく死になさいよ!」

 無理をしてでも、例え干上がってでも。そんな思いが頭をよぎる。いま退けば、もう助からないかも知れないのに、それなのに、どうして彼らは退けと言うのか。

 アルルが一つ目の頭を立派に仕留めてみせた。用意しておいた善後策も効いて、なんとか二つ目の頭にも立ち向かえているのだ。


 ここまで来たら、やりきるしかないじゃない。


 海竜の引き連れる波がいつかの水壁のようにそびえ立つ。

 霧は今にも消えそうに儚い。輪郭をなくした影に無理やり力を振るわせる。はさりとわずが離れていく。

 まだ、負けない。

 今度は、負けない。

 負けるわけには、いかない、のに。

 ばちん、脳に火花が散る。瞬間、目の前が暗くなる。




 ──どうしたんだい?


 不意に、声がした。


 ──どうしたんだい、私の小さな子猫ちゃんシェミー。そんなに泣いたりして、なにか怖い夢でも見たのかい?


 祖母の声。

 ずっと昔。まだ「不思議なものたち」が怖かった頃の。


 ──そうかい。あんたには不思議さんたちが見えるんだねぇ。私が産まれた東の国にも、そんな人たちがいたもんさ。


 そうだ、これが、始まり。魔法使いになる、始まり。

 初めて聞いた魔女の話。

 空飛ぶ靴をはいて、月の夜空に立つ魔女の話。


 ──魔女というのはね、人には見えない、この世のことわりと心通わせる力をもつのだそうだよ。


 ──だから私の子猫ちゃんシェミー、小さな子猫ちゃんシェミー、これをあげよう。だからもう泣くのはおよし。それはあんたの才能なんだよ?


 ──明日は、あんたの好きなバクラウァを作ってあげようね。

 ──お父様もお母様も、きっとすぐに帰ってくるからね。

 ──だからもう、泣くのはおよし。




「あるじよ!!」


 視界が戻る。歪んでいる。

 はさりとわずは、かろうじて支配下にいる。

 シャツの上から、胸元のお守りを握りしめる。

 泣いてません。子猫シェミーはもう、泣いていません。


「おいで、ませいっ……」

 自分の声だけが聞こえる。

 干上がりヂズマジアードに詳しいのなんて、当たり前だ。体験がある。

 霧がなくなるなら、また出せばいい。ロッキが集めた海豚イルカはまだそのあたりにいる。

 魔法使いとしての自分に、才能があるならそれは

霧海豚キリルカ……!」

 多重発動に他ならない。


 おぼろげな海豚イルカが一頭、潮を噴く。白黒に絡むうなぎに頼りない霧がかかる。

 ぱきん、ぱきんと痛みを伴う耳鳴りがする。心臓が苦しい。眼球が飛び出しそうだ。鼻に濡れた感覚、おそらく鼻血が出た。

 火花の瞬く脳にかすかな高音。

 魔法の気配だ。かもめの止まり木、発動。

 大波は波頭を崩して目前に迫る。

「あるじ、引き際を誤るでないぞ!」

 使い魔が叫ぶ。

 体に力が入らない。ケトの爪が腰に食い込む。どっしり構えて、倒れないように支えてくれている。気まぐれでのくせに、妙にカンの鋭い頼りになる相棒。

 私にはもったいない使い魔。

 体の奥底の熱に、霧海豚キリルカの意識がひやりと触れた。食い足りなければ、すぐにでも持って行くぞ、という態度だ。


 ほんの少しでいい。あと一瞬でいい。

 シェマの蜂蜜色の瞳は、大波を背負う海竜を見ている。もはや、アンケリアスの影だけでは勝てない事もわかっている。

 博打バクチだ。

 一か八か、亀が頼みの大博打だ。


 ──シェマは蛇に勝つのよ。うなぎなんかに!


 アンケリアスに絡みつく影を、引き絞った。

 無理やりに伸ばされたうなぎの胴に、海竜が大きく尖った顎を開く。



 引き際。

 魔法を解いた。


 

 波が空を覆うのを見た。

 その中に、噛みちぎられたアンケリアスを見た。

 後輩が覆いかぶさって来た。


 海竜が往還船の上を飛び越えて行くのを見て、そこから視界が暗転した。

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