第154歩: 霧と影

 アンケリアスのたてがみから、幾筋もの流水がばらばらと流れ落ちていく。

 四百パソ離れて、うなぎと船がにらみ合う。

「……なんてぇデタラメな生きモンだ」

 船長の呆れたような呟きで我に帰り、アルルは叫んだ。

 次善の策を動かすために、一つ目の策を終わらせる。


っ!」


 これが合図だ。


「──出番だ! 第一砲だいいっぽう、撃て!」

 号令に続き、肌をして抜ける砲火の轟音。

 アンケリアスが海面に頭を突き刺す。そのだいぶ手前に砲弾が水柱を上げる。

「おいでませい、霧海豚キリルカ!」

 ロッキの求めに応じて、おぼろげな海豚イルカの群れが船を囲み、一斉に潮を吹く。

 再び船長の怒号。

残砲ざんぽう、てぇ!」

 潜るアンケリアスの胴めがけ、残り二門の砲が火を噴いた。ひとつは激しく海を叩き、もう一つが海中に没しようとする尾──先の猛攻に傷ついた最初の頭を撃ち、ちぎった。

 霧海豚キリルカの噴いた潮は霧となって、海面の赤黒い染みを隠す。


「ひお!」


 ヨゾラが叫んだ。

 アルルが目をやれば、その口に塩袋がぶら下がっている。

 受け取ると今度は

「水!」

 と急かされた。

 湿気って塊になった塩を、袋ごと木箱に叩きつけてバラす。水袋の栓を抜いて、塩と水を口に流し込む。

 

 けぇぇぇええええっ!!


 かもめクービアックが鋭く声を上げた。

 

 びう! びう! びんびんびう!


 鋭く霧を裂いて、無数のウミガラスたちが矢のように海中へ飛び込む。狙いはアンケリアスの頭だ。水音の出所がぐんぐんと近づいてくる。 

「距離四十……もう三十パソぉ!」

 六眼に白うなぎの僅かな熱を捉え、ハニが叫ぶ。

 アルルは岩塩の粒に「糸」を貼り付け、水音へと飛ばした。糸先から魔力を放出し、再び釣り出しにかかる。

「上がって来まぁす! 距離十パソ!」

 悲鳴のようなハニの声。

 クービアックが再び鋭い鳴き声を上げる。

 ウミガラスが海中から一斉に飛び出て、雷のような音を立てる。

 直後、アンケリアスが海面を突き破った。


 鬱陶しい鳥を追って出たか、アルルの魔力に釣られたか。

 昼間の霧に影をにじませ白うなぎが昇る。

 水のうねりに船が煽られ、竜骨が軋む。巻き上げられた海水が豪雨となって降りそそぐ。

 赤黒いヤスリの歯を同心円に並べ、肉厚の白いたてがみを花弁にして、霧にけぶった肉食の花が船に居並ぶヒトを向く。

 水夫の何人かが腰を抜かし、かもめは怯まない。

「シェマねえさん!!」

 クービアックにどやされて、シェマが大きく息を吸うのが、アルルにも聞こえた。

「ええい!」

 恐怖を振り切るような、先輩の気合い。




 強力な「不思議なもの」と繋がる時には、干上がりヂズマジアードの危険が伴う。だから下準備や相性が重要で、呼び出せるものには限りが出てくる。


 いつの間にかいなくなり、どこにでも現れる猫。

 そんな猫と出会い、使い魔とした魔法使いは、境界線のと相性がよかった。

 「不思議なものたち」の中でも、具体性を欠き、はっきりとした形も持たず、力の弱いものたち。

 例えば大雨の日にだけ現れる橋。麦の芽吹きに舞う綿くず。霧の中で出会う自分の幻。

 そういったの中、白うなぎに対抗しうるものがあった。


 アンケリアスには、アンケリアスを。


「おいでませい!」

 海水を前髪から滴らせ、両腕を大きく広げてシェマが呼びかける。霧に映った幾重もの影を、集め絞るように両手を打ち鳴らす。


「はさりとわず!!」


 ぼんやりとした影が、瞬時に重なり、はっきりとした影になる。

 名の由来さえ曖昧なが、曖昧な物をこちら側の存在として引き込んだ。

 輪郭を定めた黒い影が、白い影の喉元に食い付き巻きつく。白が暴れて抜け出そうとするのを、黒が締め付け抑え込む。

 白の喉元から散った血が、帆と甲板を赤黒く汚す。

 横殴りの水塊が船を叩き、白黒の頭はアルルたちの頭上をかすめて後部縦帆を帆桁から引きちぎった。

 

「ヨゾラ、入ってろ!」

 アルルは有無を言わせず、相棒を鞄に突っ込む。肩紐を絞り、鞄を腹側に回してとっさに庇えるようにする。


 ハニが尻から立て続けに糸を吹いた。軽く、風になびくものを「し」たちは好む。

「おいでませい、うみし!」

「ませぃませぃませぇ!」

 ハマハッキとハニの魔法に蜘蛛糸が舞い、次いで風が船をなぶって帆を膨らませる。

「風向きはこれで!?」

「構わん!」

 魔法使いと船長が言葉を交わし、船はそのまま前進してアンケリアスから離れ出す。

 暴れる白い影に、黒い影が振り回された。

 がたん! と音をたてて、シェマが木箱につんのめった。


「しっかり……働け……!」


 に言ったのか、それとも自分に言ったのか。膝をついたまま先輩が、薄紅色の塩を含んでと噛む。

 ケトがあるじの腰に前脚をかけ「どっしり」と支えている。

 蜂蜜色の瞳をいっぱいに見開いて、時おり飛び散ってくる血や粘液にも怯まず、白黒の影を視界から片時も外さず、シェマが魔法を操り続ける。

 今や白うなぎの動きは鈍い。自らの影に捕らわれ、上がる事も潜る事もできずにいる。




 策がはまっている。

 彼女に加勢しようとして、アルルは躊躇した。

 狭い範囲で、三人の魔法使いが魔法を発動させている。で具現化した影は、影と言っても大物だ。その分代償も大きい。

 先ほどのフィジコの連発から、周辺の魔力量は回復しきっていなかった。いま自分が魔力を取り込めば、瞬間的にここが魔力の空白地帯になりかねない。

 そうなれば、起こるのは干上がりヂズマジアードだ。


 外からの魔力の流入を待つか、ここを離れて、他の三人が魔力を取り込む範囲から出るか。

 ──待ってられるか。


 船首側へ動こうとしたアルルの目に、ひときわ強い碧の光が映った。暴れるアンケリアスのさらに向こう、霧海豚キリルカの潮の向こう側、こちらへと迫り来る魔力の光。

 揺らぐもの、波打つものから魔力は生まれる。

 

 お前! 今かよ!


 アルルは霧の向こうを指して叫んだ。


「大波! 海竜が来るぞ!!」

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