第157歩: 私の使い魔

 ジャアアアアアアアアアアア!!


 さきで小さな黒猫が身を膨らせて獣の咆哮を発した時、アルルは前回と異なる感覚を覚えた。

 ヨゾラに持って行かれる。

 魔力を、体力を、塩気を。魔法に必要な三要素を持って行かれる。背骨の真ん中あたり、黒猫との繋がりから。

 塩切れの予感に慌てて塩を噛みながら、意識は、目前の事象に釘付けとなっていた。

 それは、ヤミヌシの時とはまったく異なって見えた。


 始めに、点々と白い染みが迫り来る水壁に浮いた。

 染みは次の一瞬で広がり、落雷と砲火と山崩れが一斉に起こったような轟音が響いた。

 色と形だけなら、あの日にシェマが作った泡の壁に似ていた。水が白い壁に変わって、猛烈な勢いでせり上がる。だが壁の質感は固く、その範囲に至っては比べようもない。

 船の座礁した小島を囲むように、真っ白でいびつな壁が半円を描く。

 頬をひやりと冷気がなぜる。

 氷だ。

 この壁は全て、氷だ。


 何度も咆哮を上げて、ヨゾラは止まらない。小さな黒猫の身から発せられる魔法の気配が、目の前の小島を通って周囲に広がっていく。

 押し寄せる水が次々に凍って氷の壁が積み上がり、崩れ、また積み上がる。

 ひときわ大きな氷塊が崩れて、小島の真ん中を派手に叩く。

 アルルは気を張る。魔法の三要素がひっきりなしに奪われる中で、意識までは持って行かれまいとする。

「なんと、おそろしい……」

 ケトが神妙に呟いた。

 畏ろしい。怖ろしい。

 波をあっと言う間に氷に変え、今もまだ魔法が続いている。

 こんな事が、こんな魔法が、可能なのか。過去の魔法使い達が命を賭してなお御しきれなかった海竜を、その波もろとも凍り付かせるなんて事が。

 ヨゾラがどこか遠くへ行ってしまいそうな予感を覚える。

 知りたがりで、おしゃべりで、意外と義理堅くて、いつも足下をついて来た黒猫は、実は手の届かない所にいるのだと突きつけられた気がした。

 咆哮は続く。

 もはや高波など跡形もない。膨れ上がる氷と、崩落の軋みと、落氷の水音だけが雄弁だった。

「ヨゾラ」

 なぁ、どこに行くんだよ。

「帰って来いよ、ヨゾラ」

 疑って悪かった。もうわかったから、どこにも行かないでくれ。

「戻って来い! ヨゾラ!!」

 獣の咆哮が止まる。泣く子が母親を見つけたみたいに。



 高波を、すなわち海竜とその怒りを凍てつかせたヨゾラが、ゆっくりと舳先から振り向いた。

「へへへへへ……へとへと」

 力なく笑うヨゾラの瞳が、紅と緑に明滅している。

「……気をつけたつもりなのに、とこだったよ」

 

 無言でアルルは手を伸ばして、小さな黒猫を抱き上げた。

 光に滲む毛皮を通して、ヨゾラの熱が伝わってくる。

「お前、ヨゾラだよな」

「そうだよ。ヨゾラだよ。へーきだよ」

 くすくす笑う緑の瞳が、眠たげに見上げて来る。

 アルルは立っていただけだというのに、全力で飛び回った後か、それ以上の疲労を感じていた。


 腕の中で黒猫が、氷壁の一点を見据えて言った。


「アルル、おしごと、おしまいにしよう。捕まえるんだろ? あの亀」

 




 船長は、昔どこかのおやしろで聞かされた説法を思い出していた。

 悪人は死んで弔われても、氷雪に閉ざされた世界で独り生き直さなければならない。

 他にも散々、骸の王が治める海の底だの、灼ける水しか飲めない砂漠だのといった話のうちのひとつで、祭司を鼻で笑ってやった覚えがある。

 若かった。

 死んだらおしまいに決まっている。南楼なんろう群島との戦争で散々殺せ殺せと言っておいて、何ぬかしゃあがる。それならお前らが英雄だ救世主だと崇め奉るところの竜の魔法使い様だって、星を落として何万と殺しただろうが。


 しかし今、蜘蛛の網が取り払われ、往還船が氷壁に囲まれたのを見てこれは、独り生き長らえた事への報いかとしばし思う。

 しばし思って、足下に落ちていた懐中時計を拾い、辺りを見回した。氷の壁も、船の背後には切れ間がある。そして、空を遮る物はない。

 やれやれと太陽の位置を確認すると、不満げにネジを巻いて針を合わせた。

 時計ってのぁやっぱりアテにならん。

 時刻はおおよそ午後の三刻、そんなところだろう。

回遊魚ムウトカラツども、状況を知らせろ! まだ動ける者は何人いるか!? 魔法使い殿も動けるか? 化け物の相手が済んだら、怪我人の手当てを手伝ってくれ!」




 シェマはただ眺めていた。人影が慌ただしく動き回っている。

 手にも脚にも力がはいらず、立ち上がる事もできない。質の悪い火酒の混ぜ物を飲まされたかのように、頭が距離も方向も失っている。

 強い魔法を使い続けた余韻で、魔力視が閉じられない。まるで碧い雲の中で人の幻を見ているかのようだった。

 倒れていたところを、ロッキかハマハッキかに助け起こされ、船の端に運ばれたのはぼんやり覚えている。

 そのまま甲板囲いブルワークに背を預けて、定まらない視界で、目だけが開いている。

 大波に飲まれた時、海竜に食いちぎられたアンケリアスの頭が、上から向かって来るのを見たように思う。

 それを、子どもの影が弾き飛ばしたのも見た気がする。

 水中で。子ども。どこにでもいそうな子ども。水中で? 

 水が飲みたい。

 この異常な量の魔力はなに?

 どうしてずっと軋むような音がしているの?

 何かが海に落ちているの?

 寒い。悲鳴が聞こえる。

 私も。


 私も行かないと。


「あるじ、よいのだ」

 膝に柔らかな温もりがある。聞き慣れた使い魔の声だけは、はっきりと意味がわかる。

「あるじがかなくともよいのだ。あるじが必死に働いた分、余力を残せた者もあるのだ。彼らに任せればよいのだよ。もう休みたまえ。我がいえの名にかけて誰にも責めさせぬ。もうよいのだ。終わったのだ。あるじよ、もう、終わったのだよ」


 終わった。


 何の前触れもなく、涙がこぼれた。

 シェマ自身にももう、何の涙かわからなかった。何を泣くのかわからなかった。ただただ、あの日以来ずっと心にあった後悔が氷解するのを感じながら、ひたすらに流れる涙を拭うこともなく、シェマはぼんやりと泣き続けた。




 船首のながえに、魔力が走る。

 海竜船の魔法陣が発動する。

 誰もが目の前の仕事に追われ、大猫を抱いて静かに泣く娘に気づいた者は、誰も無かった。




「私も、疲れたよ」

 王族ネコガトヒアウの一言。

 ──あんたの場合は、いつもがだからよ。ほんとにしかたのない王族。

 そんな意地悪が浮かんで、シェマは自らに呆れて笑った。

 本当に、もう少し素直になってもいいのに。

 帰ったら、休んだら、元気になったら、またブラシやってあげるから。

 だからケト。私の使い魔ファミーリャ。そこにいてくれる?

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