第158歩: 大きくて哀れなものたち
ヨゾラは牙を立てる。
前足で身を押さえ、首に力を込め、牙を立てた肉を何度も何度もしごいて引っ張り出す。独特な血の匂いが口の中に広がる。引っぱり出した肉を上下の奥歯で叩くように噛み、ちぎり、飲み込む。
アルルと出会う前に食べた、猪の屍肉に似ていた。
住むところは全然違うのに、肉の味が似るのはなぜなんだろうと思った。
「いつまで喰うんだいあれは?」
船の誰かがそう訊くのが下から聞こえる。
「気が済むまでやらせてやって下さい」
そうやって答えるアルルは、ロッキさんや船長にお願いしてきょかとかいうのを取ってくれた。
アンケリアスのこっちの頭を倒したのはしっぽ髪なんだから、ダメとかいいとか言えるのはしっぽ髪じゃないのかな。
そんな事を考えながらヨゾラは、今度は白くて分厚い脂の層に牙を立てる。
ねちゃりとして、手ごわい。
あれから一晩明け、船は海竜に引かれてウ・ルーを目指していた。
ようやく目指している、なのか、もう目指している、なのかヨゾラにはわからないけれど、とにかく早く帰らなければいけないのはわかった。怪我人だらけだったからだ。
しっぽ髪はしばらく魔法禁止で──立てもしなかったんだから、当たり前だけど──アルルは「不思議なものたち」とやりとりできないから、ハマハッキとロッキが交代で、どうにか海竜を操っているのだと聞いた。
海竜は生きていた。
氷の壁の中でじっと動かずにいた亀は、アルルが試しに
貝殻や鳥の糞なんかが積もる小島に、海竜は溶けた水を集めて溜まっていった。亀を相手に唄で呼びかけ、薫製を食べさせ、船の魔法陣を動かして、と色んな仕事があった。
小島には船のながえがこすってできた二本の傷があって、そこが碧く光を跳ね返していた。
氷の塊が落ちたあたりも
あれはアラモント鋼だと、誰かが気づいた。あれは丸いアラモント鋼の島だと。
あの小島がすぐ足元にあったから、あれだけ広い範囲に代理魔法が効いた。
アルルと繋がれたから、この小さな身体では支えきれない魔法を使うことができた。
──ここでなら、できるから。
──ここにはまだ線が繋がっているから。
──わたしの本体から、力を引き出せるから。
教えてくれたのは、自分の中の、自分だけに聞こえる声。小島を目にして、不意に聞こえて来た声。
あたしのくせに、わたしって言う、ヘンなあたし。
溶け出した海竜は小さくて動きも鈍かったけれど、それでも船の上を目指すような動きがあった。この時はまだアンケリアスが生きていたから、そこに行きたかったのかも知れない。
だけれど、アルルが
まるで、白うなぎなんてどうでも良くなったみたいに。
そして魔法の鎖をかけられ、今は船を引いている。
ヨゾラは食べる。アンケリアスを。
白うなぎの脂身は本当に脂で、引っ張っても引っ張っても切れやしない。皮はどうかといえば、これもびよんびよんで、牙がさっぱり刺さらない。
大砲があたっても平気にしていたのは、この二重の分厚い「ぶよぶよ」があったからかな、と思う。
しばらく脂身と戦ったら、口の中がヌルヌルになった。たぶんこれで、脂身も食べられた。もうお腹はパンパンだし、顎も首もくたびれた。
「アルルー、降りるよー」
下に声をかけると、アルルが背中を向けて首をすくめた。その背中に飛びつき、次いで甲板へ降りる。
見上げると、帆布にきつく
あらためて、死んだんだな、とヨゾラは思う。
とどめを刺したのはアルルだ。昨日の夜、口の中へ静かに「糸」を差し入れ、ひとこと「なんで、来たんだ」と呟いて正確に脳を撃ち抜いた。
あれだけ大きく、恐ろしかった二匹のもの。
白うなぎは噛みちぎられ、縫いつけられ、肉の塊になってぶらりぶらりと揺れるばかり。
大亀は凍らされ、むりやり薫製を食べさせられ、それまでの目的も忘れて船を引いている。
これからも、ずっとそうするのだろう。
同じ事を、ずっと、ずっと、ずーっと繰り返して、そしていつかは死ぬのだろうか。それとも、いつかヒトが居なくなる日が来ても、空っぽの船を引いて湾を巡るのだろうか。
「ねぇアルル」
「どうしたヨゾラ」
「あたし、今の気持ちをなんて言うのか知りたい。お腹はいっぱいなのに、胸は
いつもそばにいる人に、聞いてもらう。いま思っている事、考えた事、感じている事。
黒い瞳が揺れる事なく受け止めてくれる。受け止めて、考えて、応えてくれる。
「──たぶんお前、かなしいんだよ。哀れんでいるんだ」
かなしい。哀れむ。
切ないのとは、似てるけどすこし違う。
そうか、これは、かなしいのか。
大きくて、恐ろしかった、哀れなものたち。
「よぉ、アレ旨いのか?」
急な声に顔を向けると、見覚えのある水夫がいた。
前に、人魚が見えたら教えろと言ってきた男の子だ。
なんとなく遠巻きにしながら、だけど興味もあるのか、中途半端な距離で薄笑いを浮かべている。
なんだろう、これは、と思った。
なんのつもりなんだ。
そんなに離れて、おっかながって、どうせ食べる気もないくせに。
「決まってるじゃないか」
前足にこびりついた血を舐めとり、ヨゾラは少年の鼻を
「おいしかったよ」
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