第22歩: 温泉

 ──石けんなんて物ぁ、おれが若い頃にゃ高級品だったんだぞアル坊

 そんなことを父に言われた覚えがある。三歳だったか四歳だったか、とにかく蒸し風呂に連れていかれた時のことだ。

 服と杖を預けて、麻の網に入った石鹸を受け取ったらそんなことを思いだした。

 

 もろもろの手順──服を預けるとか、いろいろ借りるとか、浴場の使い方を教えてもらうとか、南部人と間違われるとか、体を洗うとか、魔法を見せろと頼まれたりとか、頭を洗うとか、湯の熱さに驚くとか、それを地元エレスクのおじさんに笑われるとか──を踏み、ようやく石づくりの湯船に浸かってアルルは天井を見上げた。

 草葺き屋根の裏が見える。

 深呼吸をすると、骨さえ柔らかくなったような錯覚を覚えた。湖で泳いでいるのとは違う。なにか魔法でもかかってるんじゃないかと思った。思わず声まで出る。

 ファヤ様さまさまだな。

 温泉の湯は独特のツンとするにおいがして、町中で時々におっていたのはこれかなとアルルは思う。


 しかし、珍しいものを見た。


 ヤミモリの身体は、思ったよりも固くしっかりとしていた。粘膜と軟らかい表皮の内側に、がっしりした筋肉の塊があるようだった。目や鼻も、目立たないけどちゃんとあった。

 ウーウィーが手を離すと、影のようになって山の方へしゅるしゅると逃げていったが、見た目に反して俊敏な動きだった。

 あれがヤミモリか。

 狩りの時だけは普通の人にも見えるのだとウーウィーが言っていた。牙があるわけではないし、普通は自分より大きな獲物を狙わないだが、力が強いから、間違って襲われると脚を折られたりするらしい。

 ウーウィーがいつ気づいたのかわからないが、あのままだとピファが怪我をしていたかも知れなかった。何げなく追い払っていたが、けっこう危ない状況だったのだ。

 やっぱり、連中が見えないのは不便だな。

 なにげなく、魔力を視てみる。

 天井や、湯樋の口に魔力の塊はいくつか見えるが、それがなのか偶然に溜まっているのかは判断がつかない。

 ため息をついて魔力視を切った。


 あのあと、ウーウィーはピファを送っていった。

 日暮れから朝までの間なら、目眩ましと夜目、あといくつかの魔法が使えるらしい。ドゥトーから火トカゲを一匹借りているとも言っていたので、心配はいらないだろう。

 ヤミモリを見たからか、ウーウィーの意固地さに諦めたのか、ピファはもう拒否しなかった。

 まぁ、しっかりやってくれよ。


 アルルは湯船のお湯を手ですくって顔にかける。にやけそうになる顔を元に戻した。

 

 明日はまたドゥトーの所へ行く約束だ。工房では、魔法陣や薬を作っているらしい。こちらからはフィジコを見せる事になっているが、さて、何をどう見せたものかと考える。

 力、熱、光、あとは翼か。一番喜ぶのは「翼」だろうけど、しんどいんだよなー、あれ。

 翼を形作るのはだいぶ慣れて来たけれど、翼を動かすのも、羽ばたいて体を持ち上げるのも恐ろしく消耗する。

 昼に塩切れを起こしたのも、ほとんど空を飛んだせいだ。頑張って作った魔法だし、おかげで登録証ももらえたけど、実用性にいまいち欠けるんだよなぁ。

 アルルはまた溜息をついた。

 思ったよりも疲れているのかも知れなかった。

 不可解な目覚め、不可解な血、不可解なしゃべる猫。昨日から不可解な事だらけだ。

 普通の人からすれば、魔法使いが何言ってんだと言われそうだが、魔法だって万能じゃない。

 特に俺のフィジコは。

 だめだ、やっぱり疲れてる。今日は戻ったら早く寝よう。

 アルルは湯船から立ち上がった。


「あんちゃん、そんな濡れ髪で外にでたら風邪引いちまうぞ。もちっと中で休んで行きな」

 体を拭き、服を着て出て行こうとしたら、湯屋の主人に引き止められた。

 湯屋の入り口のあたりは広い部屋になっていて、思い思いにくつろいでいる人たちがいる。暖炉の近くは混んでいたので、アルルは入り口ちかくの長椅子の端に腰を下ろした。

 眠い。

 湯からあがると猛烈に眠かった。

 うとうとしていると、耳に、ぱぁぁぁん、とまた銃の音が聞こえてくる。これもゴーガン家の息子だろうか。この暗いのに狩りを続けているんだろうか。

「ゴーガンさんとこの坊ちゃん、人を撃ったってほんとかねぇ?」

 銃の音をきっかけにしたのか、暖炉のほうでそんな会話が始まっていた。

「なんかの間違いじゃないんか? 確かに狩りばっかりやってるって話だけどもよ」

「いや俺もそう思うがよ。なんでも昨日、自分で言ってたらしいんだよ。『俺は人だって狩れる』ってよ」

「なんだいそりゃあ?」

「わかんねぇけど、工場の若いやつがそう言われたってぇ話だわ。なんか、新しい何とかっていう銃を手に入れたらしいで」

「いやな話だわねぇ」

「でもおめぇ、人を撃ったってんなら、撃たれたのは誰だい? 町のモンが撃たれたら、さすがに今頃大騒ぎだろうよ」

「そうだよなぁ。あのゴーガンさんのご子息だろ。そんな恐ろしいことするかね?」

「だよなぁ」

 話に、若い声が加わった。

「あのー、おれ、それ聞いたす」

 薄く目を開けてみると、体つきのしっかりした十七、八歳ぐらいの青年だった。

 こげ茶色の髪がくるくると巻いている。

「あれ、あんた、北端きたはじの舟屋の・・・・・・」

「ギデす」

 どっかで聞いた名前だ、とアルルは思った。


「で、何を聞いたって?」

 ギデと名乗った青年を、別の声が促した。

「昨日の夜に、下流の灯台んとこで聞いたんす。街道で南部人ひとり撃ち殺したとか、取り巻きに自慢げに語ってましたや」

 半ば吐き捨てるようにギデは言った。

 湯屋の広間がざわついた。

「そら本当かえ? そんな事を言って、間違いならエラい事になるぞ?」

「ゴーガンさんの工場で俺たちは潤ってる。お前さんとこの舟だってそうだろう」

「それは……わかってっす。おれだってゴーガンさんの建てた学校出てんす。でも、あそこの息子おかしいすよ」

 苛立ったようにギデは吐き捨てた。

 アルルは重いまぶたの奥で考える。

 昨日の街道で、下流側で、南部人。

 俺のこと、だろうなぁ。


 もし他の誰かが街道沿いで撃たれていたのだとしたら、自分がその死体を見つけたはずだ。

 撃たれた時の記憶はないが、なんだか銃の話を聞くと脇腹が疼く気がする。

 ジャケットの直しとシャツ一枚は安くはないが、それぐらいなら忘れてしまえる。

 できれば、聞きたくなかったな。

 アルルはそっと立ち上がった。

 外はすっかり陽が落ちて、真っ暗になっていた。

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