第168歩: さかな四尾と線二本
「ファビねー?」
ヨゾラの声。
アルルが振り向くと、ファビ
黒猫がするりと床に飛び降りて、年上の幼なじみは「なんでもない」とばかりにもう片方の手を振る。
「平気よ。最近たまにあるの」
「大丈夫か? 親父もじきにお
アルルの提案にファビ姉がかぶりを振る。
「大げさよ。お水もらうわね」
「そりゃもちろんいいけど」
幼なじみは手慣れた様子で棚からカップを取り、
「アルビッコ、アクを取りましょう」
「あく?」
「そう」
「って、何だ?」
「うそ……」
教えてもらった。
煮え立つ果汁の表面を木べらで削るようにして、掬った泡を
「アルル、すなどけいがそろそろだよ」
黒猫に言われて時計に目をやると、まさに砂が落ち切った瞬間が見えた。窓際の砂時計は足元のヨゾラからは見えないはずで、思わず「よくわかったな」と声に出る。
猫が得意げに鼻息を吹いた。
ファビ姉がカップをすすぎ、捨てたばかりのアクを一緒に流してくれる。
「アクとり、もういいわ」
指示に頷く。流れる水に、排水路を
「アルビッコ。ウ・ルーは、大丈夫だった?」
港街ウ・ルー。
ついこの間の
「……どこからどう話したらいいのかわかんないや」
ずっと気にしていたのだろう、とアルルは思った。
高波の発生や自らの無事、フラビーの無事は
丘の上から見下ろした街並み、馬車鉄道、魔法協会での仕事、シェマとの再会、髪切り娘として働くフラビーと、いろいろな事があったのに、思い返そうとすると高波ばかりが頭に浮かぶ。
「とにかく、大変だったよ──高波が起こったときにさ、俺も海沿いにいたんだ。前兆も見えてたのに、どうにもできなくて……大勢、亡くなった」
波に呑まれ、魔法で壁を張って
「……そう」
ファビ姉がアルルの背をさすった。ヨゾラをずっと抱っこしていたからか、その手はやけに暖かかった。
アルルは思う。ああ、これは、エカおばさんと同じ癖だ。労わる、慰める、そんな時の癖だ。
だから、気を持ち直す。
「だけど……っていうのも変だけど、ちゃんと楽しいことだってあったんだ。フラビーの仕事場にも行ったんだぜ」
「そう。そういえば、あの子も手紙をくれていたわ」
「そっか。なんて言ってた?」
「危ないからまだ来るなって。私をウ・ルーに呼ぼうとしているみたい」
「俺もその話聞いたなぁ。でも、街もそのうち落ち着くだろうし、そしたら行ってみてもいいんじゃないかな」
「そう?」
「あれ、行きたくはない?」
「畑の事も……レンファートの事も、あるから」
「そっか」
アルルは察した。
ファビ姉はいまだ〝ファビオラ・イォッテ=レンファート〟なのだ。その決着がまだついていないのだろう。
リンキネシュの嫁ぎ先を飛び出した、その決着が。
「……すなどけい」
ヨゾラの忠告で、時計の砂が落ちきったのに気がついた。ひっくり返し、黒板に線を足す。
「ね、ファビねー。ジャムになるところ、まだ見てたいよ」
ヨゾラがせがんで、幼なじみの懐に戻る。
ジャム作りに意識が戻る。
赤紫のジャムの
腰に手を当てて、アルルが呟く。
「時間のかかるもんなんだな」
「そうよ」
薄く微笑んでファビ姉が言う。
「ねえアルビッコ、料理のできる魔法はあるの?」
「うーん、材料! 魔法! ジャム! ってわけには。卵と小麦粉を乳脂とをいい感じに馴染ませるのがあるけど、俺が使えない」
「そう。フビッカが喜びそうなのにね」
隣家の三女、食いしん坊の
「あいつ
小麦、卵、乳脂を混ぜて薄く焼けば縮緬タマゴ。
「あれだけは私より上手に作るわ。──アルビッコ、スノキの実を粗くつぶす魔法は?」
「得意です先生」
アルルは魔力視を開いた。
揺らぐもの、波打つものから魔力は生まれる。今は特に、コンロ台の燃焼室の蓋から扉から、
──平たい網、かな。茹でたリンゴ
魔法で作った粗い網を避けるように、泡立つ果汁が流れる。鍋の取っ手にかかる手ごたえで、力場が底に達したかどうかを計り、アルルは魔法を
「うひーっ。ぞわぞわする」
ヨゾラが前足で顔をしごいた。ファビ姉は逆にじっと見入っている。
やけに生々しく、なのについ見てしまう種類の動き。
シェマがこういうの苦手って言ってたな。
迂闊にもそう思い、予想以上にずきんと来て、焦る。
折りよく時間が来て、アルルは砂時計を慎重にひっくり返し、気持ちを落ち着ける。
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「何かの絵みたい」
ヨゾラの思いつきに、図形を書き足す。
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「さかなー!」
猫が笑う。
ファビ姉から指示が入って、アルルは木べらで鍋の中身を掬い、ぽとぽと落として見せた。指南役はヨゾラの胸を
「よさそう。お疲れさま」
「もっと煮詰めたらどうなるかな」
「アルビッコ」
ファビ姉の口調がわずかに気配を変えたので、アルルは鍋をコンロ台の天板からおろした。見ると、彼女の瞳は黒板に向けられている。
「……二十と、二回」
「そうすると、六十六分か。ほぼ一刻なんだな」
計算結果を聞いて、ファビ姉が「そう」と満足げに頷く。
「食べれる? 食べよう。ぜひ食べよう」
ヨゾラは身を乗り出して鼻息が荒い。
「火傷するぞ、また」
「ちょっとだけでいいからさー、吹いて冷ましてよ。さんぜんななひゃくよん数えるぐらい待ったんだぞ」
「お前やっぱり数えてたのか。よく喋りながら数えられたな」
「どうだ! キミのすなどけいより正確だぞ! ジャム食わせろ!」
得意げに牙を見せるヨゾラに、ふむ、とアルルは思う。
ひとつ。これも調査記録に入れておこう。
ふたつ。「食わせろ」は直すべきだろうか。
迷う間に指南役から次の指示。
「次は瓶を煮て、休憩がてら味見の時間かしら」
「ほら! ファビねーはいいやつ!」
ファビ姉の細長い眉がくいっと上がる。
「ヨゾラさん。人の事をやつって呼ぶのは少し乱暴よ。女の子なんだから、もう少し丁寧に話しましょう」
「え? え、えー?」
幼なじみと黒猫のやりとりに、アルルは違和感を覚える。その手が鋳鉄のヤカンに伸ばされたまま止まる。
ファビ姉が同意を求めるようにこちらを見ていて、違和感の正体を考えるより先に、アルルはとりあえず補足した。ファビ姉をやつ呼ばわりは、確かにアルルもやらない。
「ヨゾラ、ひとって言おうぜ。いいひと」
「……ファビねーは、いいひと」
言わされた感はあるが、ヨゾラは素直に従う。ファビ姉が微笑んで「ありがとう」と述べ、しかし、この話は終わらなかった。
「ね、アルル。あたし女の子なの?」
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