いつつめ。故郷は近く、産まれは遠く

ファビオラ・イォッテ=レンファート

第167歩: こつこつかつこつ

 いち、に、さん、し。

 こつ、こつ、かつ、こつ。


 ご、ろく、しち、はち。

 さらら、さらら、さら


 数を数える黒猫の、耳が捉える二つの音。

 小さな浅鍋の中、ころころしたシロハナスノキの果実と、たくさんの砂糖。鍋の向こう、窓の所に砂時計。

 魔法使いの青年が鍋を木べらで混ぜるたび、こつこつと軽やかに鉄の鍋底が鳴る。その拍子に合わせて猫は言葉を弾ませる。


「ジャム! ジャム、ジャム、ジャム!」

「ご機嫌だなヨゾラ」


 魔法使いが振り向いた。茶色い肌に、真っ黒で短い髪の毛、焦げ茶の瞳。

 黒猫ヨゾラは魔法使いに答えようとしたけれど、楽しみな気分が勝って「んひひひひ」と笑い声だけが漏れた。

 魔法使いの視線は猫を外れ、少し昇って、ちょうどまっすぐになる。そのあたりに人の顔があるのだ。黒猫を抱っこする、隣の家のお姉ちゃんの顔が。

「ファビねえ、これを砂時計で何回分やるんだ?」

 ファビ姉。ちゃんと呼ぶとファビオラ。真っ直ぐな赤毛は腰まで伸びて、緑色の瞳はヨゾラと同じ色。白いブラウスに紺染めの胴衣、濃い灰色のスカートを着けたファビ姉は、もの静かな声で青年の問いに答えた。


「さあ?」


「ファビオラ姉さーん?」

「だって、私は感覚でわかるもの。でも、いま計っておけば、次はアルビッコひとりでも失敗しないと思ったから」

「あ、そっか」

「それなら次からあたしが見とくぞ。ファビねーの代わり」

 猫が主張し、そりゃどうも、と青年は鍋に向き直った。生成りのシャツの右肩が、かき混ぜる手の動きにあわせて揺れている。


 ろくじゅうさん、ろくじゅうし、ろくじゅうご、ろくじゅうろく。

 とく、とく、とく、とく。


 ヨゾラの頭の中で数える声と、背中を通して伝わってくるファビ姉の心音。このひとの胸はちょっと暑いぐらいに暖かくて、ヒトもいろいろ違うんだなと猫は思う。

 鍋の中では、あんなにたくさんあった砂糖が、あっという間に溶けて赤紫の果汁に染まっていく。


 はちじゅうし、はちじゅうご、はちじゅうろく。


「すごいな、本当に水いらないんだ」

「でしょう? そのうち煮立ってくるわ」

 ヒト二人のやり取りを聞きながら、黒猫は鍋で混ざる果物を見ている。リンゴ酢の匂いがツンと鼻をつく。ヨゾラはそっくり返るように顔をあげて、問いかけた。

「ね、ファビねー。ジャムって甘いんだろ?」

「そうよ」

「どうしてお酢入れたの? 酸っぱくするの?」

 問いかけに微笑みが返ってくる。

「リンゴ酢を少し入れると綺麗でおいしいジャムになるわ。ハッカだいだいの皮でもいいけど、今は季節がね」

「へええ。アルルは知ってた?」

「いや、いま初めて知ったし、入れなかったらどうなるのか試したくなってきた」

 ファビ姉の回答。

「香りもたたないし、水っぽくなるわよ」

「……なるほど。ひとさじの魔法ってわけですね先生」

 したり顔の魔法使いに、ジャム作りの先生が問いで返す。

「これは魔法だったの?」

「あー、いや、厳密には、違うけど」

「そう。いろいろ細かいのね」


 ひゃくよんじゅうはち、ひゃくよんじゅうきゅう、ひゃくごじゅう。


 百七十二を数えたところで、アルルが砂時計をひっくり返した。調理台の上から小さな黒板をとって、白墨で短く線を引く。右手をズボンでぺんぺんと払う。


 さらららららさら。


 砂時計はアルルが初めて自分のお金で買ったもので、三分を計れるんだと言っていた。けれど、ヨゾラが数えるのとは少しズレている。


 ひゃくはちじゅうさん、ひゃくはちじゅうし、ひゃくはちじゅうご


 前に四千五百を数えた時と違って、今回はお喋りしながらでも平気だ。

 しっぽ髪だって二つの魔法を同時に使ってた。これぐらいはあたしにもできるんだぞ、って驚かせてやりたい。

 ぷつぷつぷつ、こつこつこつ。

 ジャムのもとに泡がたち、アルルは鍋をかき混ぜる。


「これって、ずっと混ぜるのか?」

「そうよ。特に慣れないうちは、離れない方がいいわ」


 ヨゾラはずっと数えて、はっぴゃくろくじゅうろく。


 アルルがまた砂時計をひっくり返して、黒板に線を引いた。

「あれっ、今度は横に引くの?」

「ん。五本目は横に引くんだ。五回でひとまとまり」

「へえ」


 かたり、鍋の向こうで窓が鳴る。その場の全員が窓にちらりと目をやり、ヨゾラだけが目を止めた。

 

「ねえアルル」

「どうしたヨゾラ」

「何かいるよ」


 ファビ姉が身を固くした。


「何もないわ。カランカさんなら土曜日ティエハでしょう?」

 今日は日曜日プリマだ。五月マイゥの二十四日。

「どんなやつだ?」

 鍋から目を離してアルルが訊いてくる。訊かれるってことは、普通の人にはえない種類のか。

 ガラス越しの相手は、ところどころ歪んで視えた。

「髪の毛がモッサモサの、ヒトの子みたいな」

「色は?」

 アルルの口調が硬くなる。

「白くないよ。明るい茶色。男の子に見えるよ?」

 なんだ、と魔法使いが力を抜いた。

「まっしろ白い女の子だったら、アルルにだって見えるじゃん」

「そうとも限らない……まぁいいや。窓のそいつは、指をくわえてるか?」

「うん。右手の親指。左手は窓さわってる」

「じゃあ害はないかな。そいつは『食いしん坊アーマッティ』だ。料理してるとたまに覗きに来る。特に甘いものだったり、季節外れの珍しいものだったりするとさ」

「あーね」

 ジャムは甘い。そして、いま煮詰めているシロハナスノキは、本当なら七月アフレの果物なんだと魔法使いが言っていた。

 おとといの昼間、ララカウァラの近くに早成りの木を見つけた時に。



 長い長いいっげつを過ごした港街からの帰り道だった。

 その足で隣家におすそ分けをしに行き、ついでにジャムの作り方を尋ねたら、ファビ姉が来てくれる事になったのだった。


 ファビ姉がアルルに尋ねる。

「──その食いしん坊アーマッティって、来てたのかしら。私の家にも」

「特別悪さをするじゃない。視えないなら気にすることないよ」

「……そう?」

 納得のいってなさそうな返事だったけれど、ファビ姉は体の力を抜いた。


 この中では、ヨゾラだけが食いしん坊アーマッティを視ている。ぎょろっとした枯れ葉色の目玉が、窓の向こうから浅鍋を凝視している。窓にそえた手がたまに動くので、そのたびにガラスが音を立てる。

「……あたしは、すごく、気になるぞ」

 ヨゾラの訴えに、魔法使いは残念そうに「そうか?」とこぼして窓枠を軽くたたいた。

「できあがりはまだ先だ。エテシはらで遊んで待ってな」

 かたん、と窓が鳴り、ボサボサ頭の食いしん坊アーマッティが駆け去っていく。記憶をたぐるように宙を見つめ、ファビ姉がつぶやいた。

「エテシ野原……」

「でっち上げの地名を言うのがお決まりなんだ」

「そう」


 鍋に立つ泡から時折、透き通った泡魚アワウオが生まれては消える。


 ヨゾラがちょうど二千を数えたあたりで、ファビ姉が

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