大きくて恐ろしいもの

第110歩: 猫の魔法

 ギュワァァァああアァァア!


 突然吹き上がった空気のうねりが、河の子から一斉に発せられた威嚇の声だと言うことを、ヨゾラは知らない。

 


 この二百年の間、穏やかに湾を巡り、いつからか専用の船を牽いて過ごしてきたが、自らをつなぎ止める魔法を断ち切って、すなわち、港ごとに与えられてきた赤身の薫製を食べずに無視して、猛烈な勢いでうちみなとを泳ぎ出たのは四月アブリュウの二十五日、午後を二刻半ほど過ぎた頃だった。


 魔法使いの娘が妃殿下大路で口にしたように、すっかり春だと思わずにいられない晴天の昼下がり。ガザミうでの公園も、すぐとなりのガザミいちも、休日の始まりを楽しもうという人たちでにぎわっていた。


 そのガザミのの間、小型から中型の船が行き来する海で、そのは海上に身を投げ出し、怒りに身を任せて海面へ全身を打ち付けた。


 えぬヒトにとって、そのの姿は海のうねりとして捉えられる。高く立ち上がった巨大な海のうねりは、えぬ者にはいびつな水壁のように見える。


 そのを呼び慣らわして海竜。

 水壁が落ちて起こるのは、同様に巨大な高波である。




「逃げろ!! みんな逃げろ!!」

「はやく高台へ! 走って!!」

 必死に怒鳴り声を上げ、魔法使いとその連れが走る。

 高波は石積みの護岸に激突し、乗り越え、轟音を伴って濁った海が公園に乗り上げる。

 逃げる人が水に追いつかれ、足を掬われ、飲み込まれる。流された帆船が護岸に底を引っ掛けて、玩具のようにパタンと倒れて砕ける。

 早く! はやく! 逃げろ! 走れ!

 怒号に、悲鳴がまじる。

 公園からガザミいちに人が走り込む。市からも海の轟音と悪夢的な波が見えている。恐慌と混乱が広がる。人が転び、屋台が蹴倒され、物と言う物が散乱する。

「追いつかれるよアルル!」

 ヨゾラが振り返って悲鳴を上げた。暴力的な混乱で、ガザミ市は絶望的に混雑していた。迂回する時間は、ない。

 ケトが叫ぶ。

「あるじ! 猫の魔法を!」

「だめ! !」

 海が迫り来る。アルルが大きく魔力を吸い込み、両腕を突き出す。その鞄にシェマが飛びつき、中から四角い塊をひったくって海へと投げた。


「おいでませい! おいでませい! おいでませい!!」

 魔力を捕まえ、の気配を捕まえ、呼びだす。

泡魚アワウオ!!!」

 

 ばくぶぶくぶふばく!


 投げ込まれたのは石鹸だ。発動した魔法が迫る波を片っ端から泡に変え積み上げていく。一度は波に飲まれた人たちが、泡を破って転がり出てくる。破れた無数の泡から、同じ数の泡魚が生まれては消えていく。

「逃げろ人間! 走れ!」

 ケトが王族よろしく命じた。

 泡を破ってくるのは、しかし人だけではない。


 ばりばりばりばりっ!


 とっさにアルルが張った「壁」に、舟だったものが激突して裂ける。積み上がった泡の壁が傾く。魔法の届かなかったところから波が回り込んでくる。

「だめ……! もたない……!」

 食いしばる歯から漏れるシェマの悲鳴。

「ヨゾラ来い!」

 壁を張りながら、アルルの差し出す腕。手に持ったコートや巻布ストールを放り出すことさえ思いつかない程、どちらの魔法使いも冷静ではなかった。

 その腕にヨゾラが飛び乗る。

 アルルがさらに魔力を取り込む。壁を張ったまま、シェマとケトを守るように立つ。その間も、人や瓦礫が泡を破って飛んでくる。

「は……」

 シェマの塩が切れた。アルルが「壁」に魔力を全部つぎ込んだ。


 どぷっ。



 ──魔法使いフィジコの「力場」にも二つあってさ。

 ──普通に、押したり引いたりするやり方と

 ──受けた力を、そのまま押し返すやり方があるんだ。

 ──俺は「壁」って呼んでるよ。そのまんまだな。



 いつかの朝に、アルルが言っていた事だ。

 「壁」が丸くヨゾラたち全員を包み込んでいる。その上を濁流となった波がさらう。

 ぶつかる。

 えるもの、えないもの、硬いもの、柔らかいもの、生きていないもの、生きていたもの、生きているもの。

 アルルが声にならない呻きを上げている。ひっきりなしに「壁」につぎ込む魔力を、水の力は容易に上回る。アルルの魔力は、まもなく切れる。

 

 出ろよ、出てよ、あたしの魔法。

 なんでもいいから、出てよ。アルルが、アルルが!


「ケトっ……お願い!」

 振り絞るようにしっぽ髪が言った。


 ヨゾラの視界に、文字が走る。


 緊急事態   是

 魔法陣使用  不能

 

 つながっている。流れ込んでくる。


 機能制限   解除

 

 へたり込んだシェマが目をギラギラさせて、ケトの背をつかみ、アルルの脚をつかんだ。

 あるじと使い魔が声を揃える。


「猫は」


 接続     良好

 操作制限   解除

 代理魔法


「いつの間にかいなくなる!」


 壁は消え、海が覆い被さって行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る