大きくて恐ろしいもの
第110歩: 猫の魔法
ギュワァァァああアァァア!
突然吹き上がった空気のうねりが、河の子から一斉に発せられた威嚇の声だと言うことを、ヨゾラは知らない。
この二百年の間、穏やかに湾を巡り、いつからか専用の船を牽いて過ごしてきたものが、自らをつなぎ止める魔法を断ち切って、すなわち、港ごとに与えられてきた赤身の薫製を食べずに無視して、猛烈な勢いで
魔法使いの娘が妃殿下大路で口にしたように、すっかり春だと思わずにいられない晴天の昼下がり。ガザミ
そのガザミのはさみの間、小型から中型の船が行き来する海で、そのものは海上に身を投げ出し、怒りに身を任せて海面へ全身を打ち付けた。
そのものを呼び慣らわして海竜。
水壁が落ちて起こるのは、同様に巨大な高波である。
「逃げろ!! みんな逃げろ!!」
「はやく高台へ! 走って!!」
必死に怒鳴り声を上げ、魔法使いとその連れが走る。
高波は石積みの護岸に激突し、乗り越え、轟音を伴って濁った海が公園に乗り上げる。
逃げる人が水に追いつかれ、足を掬われ、飲み込まれる。流された帆船が護岸に底を引っ掛けて、玩具のようにパタンと倒れて砕ける。
早く! はやく! 逃げろ! 走れ!
怒号に、悲鳴がまじる。
公園からガザミ
「追いつかれるよアルル!」
ヨゾラが振り返って悲鳴を上げた。暴力的な混乱で、ガザミ市は絶望的に混雑していた。迂回する時間は、ない。
ケトが叫ぶ。
「あるじ! 猫の魔法を!」
「だめ! 見られてる!」
海が迫り来る。アルルが大きく魔力を吸い込み、両腕を突き出す。その鞄にシェマが飛びつき、中から四角い塊をひったくって海へと投げた。
「おいでませい! おいでませい! おいでませい!!」
魔力を捕まえ、ものの気配を捕まえ、呼びだす。
「
ばくぶぶくぶふばく!
投げ込まれたのは石鹸だ。発動した魔法が迫る波を片っ端から泡に変え積み上げていく。一度は波に飲まれた人たちが、泡を破って転がり出てくる。破れた無数の泡から、同じ数の泡魚が生まれては消えていく。
「逃げろ人間! 走れ!」
ケトが王族よろしく命じた。
泡を破ってくるのは、しかし人だけではない。
ばりばりばりばりっ!
とっさにアルルが張った「壁」に、舟だったものが激突して裂ける。積み上がった泡の壁が傾く。魔法の届かなかったところから波が回り込んでくる。
「だめ……! もたない……!」
食いしばる歯から漏れるシェマの悲鳴。
「ヨゾラ来い!」
壁を張りながら、アルルの差し出す腕。手に持ったコートや
その腕にヨゾラが飛び乗る。
アルルがさらに魔力を取り込む。壁を張ったまま、シェマとケトを守るように立つ。その間も、人や瓦礫が泡を破って飛んでくる。
「は……」
シェマの塩が切れた。アルルが「壁」に魔力を全部つぎ込んだ。
どぷっ。
──
──普通に、押したり引いたりするやり方と
──受けた力を、そのまま押し返すやり方があるんだ。
──俺は「壁」って呼んでるよ。そのまんまだな。
いつかの朝に、アルルが言っていた事だ。
「壁」が丸くヨゾラたち全員を包み込んでいる。その上を濁流となった波がさらう。
ぶつかる。
アルルが声にならない呻きを上げている。ひっきりなしに「壁」につぎ込む魔力を、水の力は容易に上回る。アルルの魔力は、まもなく切れる。
出ろよ、出てよ、あたしの魔法。
なんでもいいから、出てよ。アルルが、アルルが!
「ケトっ……お願い!」
振り絞るようにしっぽ髪が言った。
ヨゾラの視界に、文字が走る。
緊急事態 是
魔法陣使用 不能
つながっている。流れ込んでくる。
機能制限 解除
へたり込んだシェマが目をギラギラさせて、ケトの背をつかみ、アルルの脚をつかんだ。
あるじと使い魔が声を揃える。
「猫は」
接続 良好
操作制限 解除
代理魔法
「いつの間にかいなくなる!」
壁は消え、海が覆い被さって行った。
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