第109歩: 水壁
困ったような、誤魔化すような笑顔が、麦藁色の前髪に隠れた。
「五年、そろそろ六年にもなる話じゃない」
「そうだけどさ。やっぱりちゃんと謝りたかったんだよ、ずっと」
五年前の
思い出すたびにちくりとする、古く幼い傷。
少しの沈黙を破り、シェマが顔をあげてからりと言う。
「じゃあ、一杯ごちそうして」
「そんなのでいいのか?」
「そんなのがいいわ。それぐらいがいい。忘れてしまってもいいぐらいなのに、きみって変なところ律儀よね。だいたい──」
それっきり、シェマが口をつぐむ。
アルルが見守る中、何かを抑え込むように首をすくめ、背を強ばらせて目を固く閉じる。
「……シェマ?」
「──大丈夫。思い出したら、腹が立ってきただけ」
「ほんとうに悪かったよ」
アルルの謝罪に、シェマがかぶりを振る。
「違う、違うのよ。きみじゃないわ。あいつらよ。あいつらが……きみにした事」
ゆっくりシェマが目を開く。
アルルは頭の芯が冷えるような錯覚を覚える。
「知ってるのか──いや、知らないわけ、ないよな」
殴られ、晒し者にされたのだから。
「あの翌日に、だれかが噂してるのを聞いたわ。あんなひどいことを、私、きみに『全部話せ』だなんてね」
アルルの胸が疼いた。
好きな女の子に、殴られた話なんてしたくない。
あの時は、そして、つい最近までそう思っていた。
しかしあれは、単に勇気が足りないだけじゃなかったか。ある少年に会ってからはそう思う。
「あれは、俺が意地はっちまっただけだ。シェマ、ずっと待っててくれてたのにさ。バカなところでバカなカッコのつけかたしたと思うよ」
「お互い様よ。私も私、きみもきみ。噂をきいた頃にはアルルくんもクロサァリを出た後で、カケス銅貨ももう見つからなくて……やっぱり、あの時すぐにあいつらを殴りに行けばよかったわね」
その瞳の奥に、忘れていた怒りが、悔しさが揺れている。
アルルは思い出す。あいつら、という言葉を鍵にして。
この蜂蜜色の瞳が怯え、戸惑っていた地下実験庫。体が熱くなる。自分が殴られ、晒された事よりよほど。
「──そうだな」
しかし過去なのだ。今から戻って殴ることは出来ない。それでも、それもわかった上で、言う。
「盛大に殴っておけば良かった。もし会うことがあったら、よろしく殴っとくよ」
ふふ、とシェマが笑って応えた。
「よろしく」
「よく笑うであろう?」
ひそひそと、ケトがヨゾラに話しかける。
「また知らない話してるよ。アルルなに謝ってたんだろ?」
顔に不機嫌と書いたヨゾラが答える。
ヒトの脚がたくさん見える。乾いた土ぼこりで鼻がぺかぺかになる。
「これも
どうだ、とばかりにケトは言うが。
「これ、ほんとに良い考え?」
アルルをシェマに貸してあげてる、と考えた所でやっぱり面白くない事に変わりはない。
ただ、こっそり近づいて下から驚かすのはちょっと面白いと思った。二人がおしゃべりに夢中になっていれば、感づかれる事もないと大猫は言っていた。
長テーブルの下に潜り込み、耳をそばだてながら大小の黒猫はそろそろと見慣れた靴へ近づいていく。
その脇をペタペタと、尖った草葉をもって蛙が走って行った。どこから来るのか、これが七匹目の河の子だ。
「どうした?」
とアルルの声が聞こえる。
「河の子……?」
しっぽ髪が呟くのも聞こえる。
「ひと雨くるのかな」
そんな事を言っているが、空は晴れ渡っていて、雨の気配はなかったはずだ。
歩みを進める。魔法使いの脚は動かない。そろそろ、その足下だ。そうしたら飛び上がって大きな声を出して
「ケト!」「ヨゾラ!」
感づかれた。もうちょっとだったのに。
ヒト二人がテーブルの下を覗き込んで大きな声を出したので、他のヒトも何だ何だとつられてテーブルの下に顔をのぞかせる。
「マァァオウ」
とケトが鳴いた。猫か。猫か? でかいなあ。そんな声が聞こえる。
「にゃあ」
と真似して鳴いてみた。猫か。猫か? 本当に「にゃあ」って鳴く猫初めて見た。そんな声が聞こえる。
「遊んでないで。行くわよ」
シェマが丸太の椅子から立った。
「河の子の様子がおかしいわ」
河の子を追う大猫と先輩の後を、アルルも追う。昼飯時が終わって、
その人波をすり抜けながら蛙を追っている、らしい。
「また増えた」
足元からヨゾラが言った。これが何匹目だろうか、どの河の子も同じ方向へ走っていると言う。
走っている。河の子が?
シェマ、ケト、ヨゾラは蛙の動きに気を取られて気が付いていないけれど、
あそこの女の子もそうだ。見えない何かを目で追っている。道の端に寄って左から右、左から右へと、くりくりした赤い瞳で追っている。
肌も髪も服も真っ白のその子と目が合った。「見て見て!」と言わんばかりの笑顔を見せられる。
悪いな、
とアルルは心の中で返した。
「どきどきする。どきどきするわ」
その子の前を通りすぎた時に、そんな事を言っているのが聞こえた。
市を抜ける。ガザミ
「なによこれ……」
シェマが低くつぶやく。
「ねぇアルル。河の子がね」
ヨゾラの口調も、いつになく不安げだ。
「すごい数の河の子が、海の方に集まってる。びっしり集まってる。でも、騒いでないんだ、あんなにいるのに」
魔力視を開くと
河の子が視えているのか、怯えて泣く子がいる。あわてて逃げる大人がいる。それを怪訝な目で見たり、笑いものにする人もいる。
「河の子は海水を嫌うのに、どうして海に……?」
シェマが呟く。
「騒ぐでもなく、何のつもりか」
とケトが唸る。
アルルは前に出た。
何にせよ、これは魔法使いの領分、魔法使いの仕事だ。
「ヨゾラ、教えてくれ。あいつらはどんな様子だ? どんな様子だった?」
黒猫に問う。
「走ってたよ。二本脚でペタペタ。みんな尖った葉っぱもって、両手で構えてる。あたしが溺れた時にも、あんな葉っぱを持ってたのがいたよ。二匹で尖った葉っぱ持ってケンカ? 勝負? してた。あ、また来た。やっぱり葉っぱ持ってる」
尖った葉は武器のつもりなのか?
海の水を嫌う連中が、武器をもって集まっている?
戦う相手はなんだ。海からくるものか。護岸を埋め尽くすほど集まって、何と?
巨大な何か。
この穏やかな西部の内海にいる、そういうもの……。
また一隻、船が入り江を行く。
船。
まさかと思う。
振り返る。
「シェマ、木霊呼んでくれ!」
「木霊!? 木霊で河の子をどうするの?」
「いいから! 海沿いから、急いで人を逃がしたい!」
あれはウ・ルーの船だった。そして、河の子たちをここまで駆り立てるようなものは、あれしか思いつかない。
ヨゾラが、シェマが、ケトが、びくっと体をすくめた。
アルルには何も聞こえない。公園の、人の、鳥の、海の、日常の音しか聞こえない。
「
入り江に水壁が立った。
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