第111歩: 何も出来なかった魔法使いとして

 溺れているんだとヨゾラは思った。

 上も下もわからない、自由がきかない、息ができない。

 目の前に現れたはずの文字はもう見えない。自分の一部分がどこか足りないように感じる。

 真っ暗な中にいるはずなのに、いろんな風景の切れ端が頭の中を走り抜けていく。

 広がっていく海、倒れるバシャテツ道、流される舟、屋台の骨、ヒト、海の終わり、四角い建物、金色の看板は見たことがある。四角い建物の真ん中に空いた、四角い庭。

 爪が布地に食いこんでる。慣れ親しんだ布地、アルルのコート。

 庭が、近づく。ケトの声がする。

「猫は」




 猫はどこにでも現れる。

 王族ネコガトヒアウの声を合図にしたかのように、がくりと膝を落としてアルルは激しく咳き込んだ。

 息ができる。

 ここはどこだ? ヨゾラは……腕の中だ。しがみついてる、よかった。水はどうなった? 魔法フィジコの「壁」はまだ破れてなかったはずだ。シェマは?

 混乱するアルルの思考は、ケトの悲痛な声で遮られた。


「あるじ!」


 振り返って、誰かがズボンの裾をつかんでいることに気づく。その手の持ち主に大猫が身を寄せ、うつ伏せに倒れた体をひっくり返そうとしている。あるじの体がを起こして小刻みに揺れる。麦藁色の髪がばらりと流れて顔を覆い隠している。


 重度の塩切れ。


 介抱するべく腕の黒猫をおろそうとして、その目がとしているのに気が付いた。

 さかんに頭を振り瞬きを繰り返す緑の瞳に、以前見たあかい光が明滅している。

 片目をきつく閉じ、牙を剥くほど顔をしかめて猫が言う。

「あたしは、へーき。わたしは、大丈夫。しっぽ髪を──」

「お前」

「──シェマを助けろ!」

 ヨゾラの命令を受けた。強い命令だった。

 コートごと黒猫を下ろし、シェマの首と肩を抱き抱えるようにして横向きにする。思ったよりも自分の腕が重い。シェマの震えが伝わって来る。

 塩切れの症状はめまい、脱力、頭痛、ひきつけ、そして昏睡と進む。放置すれば危険だ。

「アルル殿」

「大丈夫だケトきょう。塩も水もある」

 日陰で薄暗い土の上に塩袋を出し、右手で口をほどく。

 ままならない呼吸を縫ってシェマが何かを言おうとする。

「やっ、が、やまびぐっ、ぐっ、かふっ」

「落ち着けシェマ。息だけしてろ」

 袋から塩のかけらをつまみ出す。塩切れによるひきつけは、アルル自身も何度か体験したことがある。上唇の裏だ。いつもそこに塩を塗られた。

 迷わずそこに塩粒を差し込んだ。ぬめる指をズボンで拭い、自分も塩を含んだ。

 周りを見回す。二階建ての建屋に四方を囲まれた庭。気づけば四ツ把カケスが鳥小屋で騒がしい。

 魔法協会の中庭か。

 海から多少距離があるとは言え、協会も六区の建物だ。安全とは言い切れない。

 シェマの様子は変わらず、かふっ、かふっと不規則な呼吸を繰り返している。

「アルル殿、下は危ない。二階へ連れて行って貰えぬか。宿直室があるのだ」

 切羽詰まったケトに頷き返す。

「ヨゾラ、立てるか?」

 小さい方の黒猫はぶるぶると水を払うように一度身体を震わせた。

「あたしはへーきだってば」

 


 協会の中は鍵がかかっていなかった。シェマを抱え、急いで二階へと運び、埃っぽい宿直室の小さなベッドに寝かせる。

「やまびこ、ふえ、吹いて」

 いくらか様子の落ち着いた先輩から指示が出る。

 山彦笛。

 協会から支給された「一式」の中の一つ、緊急を知らせる為の木製の小笛だ。「笛が鳴ったら協会に集合」と説明を受けた時には、そうそう使うこともないかと思っていたが。

 


 ひょるるる! ひょるるひょるるる!

 


 アルルが吹き鳴らすのに遅れて、シェマの一式鞄から同じ音が鳴る。協会の職員がもつ笛も、同様に鳴っているはずだ。

 外からはひたすら叫び声が聞こえてきている。この部屋の窓からは通りの様子がわからなかった。

「見てくる」

「すまぬ」

 ケトに短く言い残して、様子の見える窓をさがす。足下にはヨゾラが何も言わずついてきている。

「ヨゾラ」

「いいだろ?」

「助かる」

 差し出した腕にヨゾラが飛び乗る。それを肩に掴まらせる。通りに面した窓を開けると、五区方面へ逃げていく人波が見えた。

 通りの海側から、水は瓦礫を押しやりながら徐々に北上してきている。塀に登ってやり過ごす人、樹木に捕まって流されまいとする人、馬車の上によじ登って助けを呼ぶ人、二階から縄を投げて救助を試みる人。

 瓦礫がぶつかって崩れる塀がある。落ちた人を必死に捕まえる人がいる。

 七月彗星アフルンコメタ小路だけではないだろう。海に近い地区の至る所で、こんな光景が繰り返されているはずだ。

「アルル、くん」

 声に振り向けば、シェマが壁に寄りかかるようにしながら歩いて来ていた。

「……行くわ」

 切れ切れに発音しながら、乱れた髪をまとめて紐で一つに縛り上げる。

 使い魔を足下に従え、立っているのも辛そうなくせに、瞳ばかりをたぎらせている。

「無理するなよ」

「行かなきゃ」

「せめてもう少し休んで──」

「何も、出来なかったのよ?」

 低く呪うような声だった。


「逃げる、事しか、出来なかった……!」


 自らの無力を呪い、震えるシェマの声は、まっすぐにアルルをも刺した。


 何も出来なかったのは、誰か。

 逃げることすら出来なかったのは、誰か。


 駆け寄る。引き寄せる。同じ魔法使いとして。何も出来なかった魔法使いとして。しがみつくように抱きしめる。

「俺も、俺だって……!」


 河の子が恐れたの正体なんか、後回しで良かった。すぐにでも海から離れろと言って回るべきだった。自衛のために張った「壁」、それに人のぶつかる音が、耳に残っている。あの人たちは、どうなった。

 腕が、脚が、わなわなと震えだす。

 かみしめた奥歯がぎしりと鳴る。

 腕に力がこもった。

 シェマの爪が服越しに背に食い込んだ。

 喉まで出かかった嗚咽を止めたのは、耳許で聞こえた黒猫の声だった。

 初めて聞く、優しく、厳しい声だった。



、アルル」



 ──ああ、そうだ。

 こいつは、簡単に言ってくれるんだった。わかってやってるんだ、自分の命令に力があることを。

 でも、そうだ。甘えちまう所だった。

 まだまだ終わってもいないのに。


 シェマの体を離す。細い。柔らかい。でも弱くない。

「先に行く。後から来い」

 肩にシェマの額がぶつかるのを感じた。

って」

 頷き兼頭突きだ。

「気、つけなさいよ」

 その頬に涙の筋があったけれど、このしっぽ髪の魔法使いはもう、先輩の顔に戻っていた。

「だいじょうぶ、あたしがついてるんだ」

 ここぞとばかりにヨゾラが割って入る。シェマがまっすぐヨゾラを見て返した。

「お手並み、拝見ね。アルルくんの相棒さん」

「まぁ見てってって」

 いつの間にかフラビーがうつっている。

 アルルは通りに面した窓枠に脚をかけた。


「集まった協会の人たちには、私から説明しておくわ。そしたらすぐに行く」


 アルルは同僚シェマに頷き、相棒ヨゾラに声をかける。

「いくぞヨゾラ。とにかく助けられるだけ、助ける。お前の目と耳も貸してくれ」

「いいよ。すこぶるいいよ」

 シャツの襟元から力強く返事がくる。の使い所が違う。アルルはふと笑ってしまった。


 七月彗星アフルンコメタ小路の道幅は、「翼」を広げるには狭い。一度屋根より上に昇る必要がある。その経路に素早く当たりをつけて、魔法使いは窓枠を蹴った。

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