第160歩: あっというまに終わる土曜、星が瞳に映った日曜

「綱ぁ引け! ぐずぐずすんな!」

「どっかから布もっと借りらんないかね!?」

「赤鳩は!?」

「鳥かごに返したったよぅ!」

「煉瓦倉庫に空き空き! 空き作れ!」

「お医者つれてきたよ!」

「二人っばかしひでぇのがいるってさ!」

「夫人にも知らした方がいいんじゃねぇかな!?」

「行った行った! 歯抜けのヤツいただろ!? あいつが行った!」


 五月マイゥの九日早朝。うちみなとのただならない様子に、フラビーは胸がざわつくのを抑えられなかった。


 ──元気だよね? 帰ってくるんだよね? ビッコ。


 昨日、海を見た。

 ただひたすらに、涙がでた。

 見慣れた海だった。

 五月の午後に光る、静かな海だった。


 船が出てから、毎朝フラビーは港へ来ている。

 修繕に走り回る男から怒鳴られて、怖い思いをしたこともあった。

 崩れた小屋を寝床にした子に、暗い瞳で睨まれた事もあった。

 店に来れば髪を洗えると老女へ勧め、それで腹が膨れるかと返されてやるせなくなった事もあった。

 ウ・ルーの変わりようを見るのは辛かった。

 だけれど、街に知り合いのいないあいつに、誰が言葉をかけてやれるだろう。

 誰が、アルビッコに「おかえり」を言ってやれるだろう。

 そんな気持ちで毎朝来ていた。

 そんな気持ちで毎朝来ていて、いざその時になったら出てきたのは涙と「良かったぁぁぁ! よかったよぉお、よかったぁあぁ!」で、気がついたらアルルに飛びつき、近くにいたシェマとまとめて両腕にかき抱き、二人の頭といわず背中といわず、ごりごりと撫でていた。


 


「ふっ。フラビーさん、だめ、私、汚れてて──」

 シェマが力なく抵抗する。アルルは幼なじみのしたいようにさせた。勢いづいたフラビーは止められない。

「ヨゾラちゃんも、ケトきょうさんもぉ、良かったぁあ!」

「うん。えと、へへへ。うん。守ったよ」

 ヨゾラがはにかんで笑い、ケトが「うむ」と短く頷く。

「おおっと? これはどういう状況なんです?」

あっつぅいお出迎ぇですよぅ」

 ハマハッキが飄々と言い、ハニが冷やかし、ロッキは無言で微笑み、クービアックがくちばしを鳴らして笑う。

 フラビーの抱擁は相変わらず全力で、ごりごりされるのも多少は痛かったけれど、勢い溢れる出迎えは何よりも「帰ってきた」と思わせてくれた。

 そうだ。帰ってきた。帰ってこられた。約束を守れた。待っててくれた。

 じんわりと肺の底からぬくもりが上ってくる。

「ただいま。フラビー」

 そのぬくもりのままに、フラビーの背に手をまわす。

 しかしなぜか文句を言われた。

「さっ、さきっ、さき、先に言うなんてぇえ!」



 その後、ぐしゃぐしゃな顔のフラビーを仕事に送り出し、船長に挨拶し、帰りがけに全員で協会に顔を出し、それでも昼前には宿舎に着いた。

 今日が土曜日ティエハで本当に良かった、と言ったのはハマハッキだ。

 水を汲み、潮風と日焼けでひりつく体を拭き上げ、ひと心地ついたとベッドに転がったのが最後の記憶で、気がついたら土曜日が終わっていた。



 真っ暗闇で、静かで、耳鳴りと猫の寝息だけが聞こえる。

 船はとっくに降りたというのに、部屋が揺れているように感じられて気持ちが悪い。

 喉も渇いた。一旦起きてしまえ。


「どっか行くのー?」

 とりあえずズボンを履いていると、ヨゾラの声がした。

「水、汲んでくるだけだよ」

「んー、そーですかー……」

 寝ぼけた返事が返ってくる。

 肌着の上からジャケットを羽織り、魔法フィジコの光をうっすら灯して、そっと外に出る。

 月はとうに沈んで、夜明け前の空気はいつの間にか、わずかに夏を含んでいる。


 一階の水場に先客がいた。見慣れない影の形で、誰なのか一瞬わからなかった。

 井戸の縁に腰掛け、ぼんやり星空を見上げていた彼女がほんの少し顔を傾けて、蜂蜜色の瞳と目があった。それでようやく確信が持てた。

 

「シェマか。誰かと思った」

「なにそれ?」

「髪のせいだよ。頭の上で丸まってる」

 緩くまとめ上げられた麦藁色の髪を、シェマの細い指がさす。

「これ? おろしてるとね、そろそろ寝るとき暑いのよ」

 そういうものなのは、アルルも知っていた。ただ、彼女の私的な姿に、たとえばうなじにかかるおくれ毛や、生え際のきれいな額に戸惑って、思わずひとこと漏れた。

「かわいいな」

 ぷっ、とシェマが噴き出し、頬杖をついてむくれて見せる。

「寝る時の髪をしみじみ褒められてもね?」

 喉からぐぅのが出た。アルルはごまかすように話を振った。

「何してんだよ?」

「お手洗い帰りの天体観測。きみも起きちゃった人?」

「まあな。喉渇いちまって」

 水桶を軽く掲げてみせる。

「ああ、私、邪魔よね。もう行くわ」

「いいよ。そのままでも水ぐらい汲める」

「そう? じゃそうする。アルルくんも見ていく?」

「ああ──星、好きだったっけ?」

「人並みにはね。読めたりはしないわ」

 そう言って夜着にくるまれた脚をぶらぶらさせ、夜明け前の空を見上げる。

 アルルは桶を置き、井戸にゆっくり釣瓶を落とした。音を立ててはいけないような気がした。

 なるべく静かに綱を引き、そっと水を移す。

 シェマが、くすりと笑って振り返る。

「そんなに気を使わなくていいのに」

 囁くようにささやかな声がする。なるべくひそやかに返す。

一番鶏いちばんどりが鳴くまでは静かにするさ。調子は?」

 見たところ、だいぶ良くなったようには思う。アンケリアスを倒してから一晩明けるまで、受け答えも要領を得ず、目もよく見えていないような有様だったのだ。

「面倒かけてごめんね。だいぶ良いけど、魔力視にまだ違和感が残ってる──無茶するな、とか言いたい?」

 シェマめ。

 腕を組み、顎をあげて彼女を見下ろす。

「言っとくけど、これでも心配したんだぜ?」

「うん。ごめん。だけど、私はああするしかないと思った。あそこで魔法を解いたら誰かが、それこそきみが次は無茶をしたんじゃない?」

「その言い方は……ずるいなぁ」

 苦笑がこぼれる。促されて、アルルも座った。

「今回は私の番だった、ってだけよ。私だって好きで無理したんじゃないわ。それはわかってよ」

「わかってるよ。ただ俺は──」

「俺は?」

「俺は──見たくなかった。あんなふうに、シェマがぼろぼろになるところなんてさ」

 少し沈黙が落ちた。

「わるい。俺、いますごく自分勝手なこと言ったよな」

「そんなこと──」

 ある、とも、ない、とも言わずシェマが続けた。

「きみの気持ちはね、嬉しいの。本当よ。きみが今でも──なんだかとても嫌な言い方だけど、まだ私を気にかけてくれてるの、わかるの。でもね、私にも魔法があるのよ。守る側なのよ。きみや、ヨゾラさんや、フラビーさんや、誰かが傷つくところなんて、私も見たくないわ」

「だけどそのためにシェマが傷つくんじゃさ」

「楽な相手じゃなかった。頭がひとつだったらきみの魔法で片が付いただろうけど、そうじゃなかった。だから言ったじゃない、今回は私の番だった。──ね、アルルくん。私たち、やり遂げたのよ。帰ってこられたわ。みんな、生きて帰ってきたのよ。今日ぐらい喜ぼうよ──いっしょに喜んでよ」


 彼女の瞳が柔らかく光った。いつものいじわるな光じゃなかった。見つめ合った。夜明けの星を映して揺れる瞳を確かに見た。蜂蜜色の天球に散らばる星で包まれた気さえして、ただその星は、流れ星だった。


「──友達、でしょ?」


 ふいに目をそらして上を向き、どこか震える声で彼女が先輩風を吹かせる。

「がんばったじゃない、私たち。がんばったのよ。だからこうやって、星を見たりできるんだわ」

 見上げる空は、黒に青みを含んで朝に向かい、彼女の言葉はアルルの頭で何度も響いた。


 遠くで、一番鶏が鳴いた。

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