第100歩: ハリハリムシ
「この工房で使っている針と針山、あと、何でもいいのでカップをひとつ持ってきてください」
とアルルが不機嫌そうなおばさんに声をかけた。
「
魔法使いが頷くと、痩せぎすで目の下が黒ずんでいるおばさんは、お針子の娘たちにもろもろ持ってこさせた。
ヨゾラは工房の梁に寝そべって、それを眺めている。
大小幾つかの車輪を貫く、車軸みたいな梁だ。車輪から、工房に据え付けられた
なぜこんなところに乗っているかといえば、おばさんが猫嫌いだったからだ。
おばさんの不機嫌、これが原因そのいち。
協会の建物と同じぐらいに大きい仕立て工房。街を挟んで反対側、七区の外れにあるこの工房は遠かった。
一区から六区が内側、七区から十一区が外側、覚えたぞ。
「もう三日も
八つ当たりめいたトゲのある懇願。ほうせいとやらが出来なくて、お金がもらえない。これが不機嫌の原因そのに。
そんなのアルルのせいじゃないのに、感じ悪いなぁとヨゾラは思う。アルルもアルルで怒りもせずに
「遅くなって申し訳ないですね。ええ、すぐに調べますから」
と宥めすかしている。
あのアルルもあんまり見たことないな、と思う。一度、エレスク・ルーであの女と喋った時にあんな感じだったか。
今日ふたつめのおしごと。
この工房で、怪我人が続出するから調べてくれ、という話だった。おばさんも娘たちも一様に左手のどれかの指に小さく包帯を巻いている。一人は
大きな怪我人が出たのと、血で生地が汚れるからというので、工房は止めているのだそうだ。
──仕事中に指を針で刺すのはそりゃ、ありそうな話だけどな。それが工房全員、毎日のように刺すならやっぱり怪しいよ。
と道すがら、ぺたんこ鼻が言っていた。
ファビ
集められた針山とカップを前にして、肩掛け鞄からアルルが乾燥した草の束を取り出す。今日の昼間、協会から「一式」として受け取ったもろもろのうちの一つ。
「虫除け焚きますが、良いですか?」
「いや困るよ!」
おばさん、即答。
「煙出るんだろ? 生地に臭いがついたらどうするんだい。外でやっておくれよ」
「ああ……なるほど失礼しました」
周りの棚に並ぶ生地や作りかけのドレス類に目をやって、アルルが虫除けをしまった。外は、昼過ぎから小雨がぱらついている。
どうするのかとヨゾラが見ていたら、アルルは針山から針を抜いて作業台に並べ始めた。針先を手前に、頭を奥に。おばさんと娘たちが訝しげに不安げに見守る中、アルルは肩掛け鞄に左手を突っ込んで、針の前にどんと置いた。
ヨゾラのヒゲがピクリと動く。わずかな魔力の流れを感じる。アルルの吸いこんだ魔力が、鞄に突っ込んだ手から滲み出て、その匂いにヨゾラは空腹を覚えた。
食欲をそそる魔力。
「何やってんだい魔法使いさん?」
おばさんがそういうのと、娘たちから小さく悲鳴があがるのが同時だった。
針のうちの数本が、匂いを嗅ぐかのように針先をうねらせている。
「あたりだ」
と魔法使いが呟くのが聞こえた。
ぷつ、ぷつ、とごく小さな音。動く針が、鞄の革に食いつく音だ。
「気味の悪い……なんだいそりゃあ」
迷惑極まりない、といった感じでおばさんが言った。
「ハリハリムシ、って呼んでます。針のフリをしてチクりとするものですよ」
おばさんに説明しながら、アルルは鞄に食いついたハリハリムシを右手でつまんでは、カップの中に放り込んでいく。
「そのカップ、あんたにやるよ。持ってっちまってくれ」
「毒虫じゃないですし、洗えば大丈夫ですよ?」
「いらないね」
「そうですか」
受け答えをしながら、アルルは次の針山に取りかかる。
うねうねする銀色の虫がカップにたまって、工房の女たちが心持ち身を寄せ合うなか、アルルは最後の針を調べ終えて、とどめの一言を発した。
「虫のついていた針山は、燃やしてしまってください。中に卵があるかもしれません」
おばさんから、この世の終わりみたいなうめき声が聞こえた。
針山をストーブに放り込んでアルルが火をつけ、炎が上がるのを見届けると、おばさんは十五歳ぐらいの一番若い娘を呼び寄せて一言謝っていた。
「針先が勝手に曲がるなんて、馬鹿げた言い訳をするんじゃないよと思ったもんだけど、疑って悪かったね」
と。
聞いて娘は安心した顔を見せ、すこし涙ぐんだ。
いつの間にか針が増えていたら注意すること、針先が勝手に動いて指を指すような事があれば、その針は処分すること。
そんな注意の後、アルルが改めて虫除けの束を取り出した。
「新しい針山を作ったら、この虫除けの煙でよく燻してください。あいつらが寄りつかなくなります」
そう言って銀貨二枚で売りつけ、魔法使いは工房を後にした。
「雨、やんで良かったね」
肩掛け鞄から顔を出し、ヨゾラが鞄の主へ話しかける。
「ほんとだな」
鞄の主は二つの鞄を互い違いに斜め掛けしていた。片方はララカウァラから持ってきた鞄。もう片方は協会から「一式」として渡された焼き印入りの鞄。
脱いだコートを小脇に抱えてアルルが、いつもの調子で続けた。
「雨のなか六区まで歩くのかと思ってげんなりしたよ」
雲の間、藍色の空にはちらちらと星が見え始めている。
「こういうこと、これから毎日やるの?」
「そういうこと。明日の午後と明後日はお休みだけどな」
「おしごと」
「そう。仕事」
ぬかるむ道を行き、家路を急ぐ人々とすれ違う。そろそろ真っ暗になりそうだ。
「しごとと、働くって事は、どう違うの?」
「そりゃ同じ事だ」
「そうかな」
ララカウァラでもアルルはよく働いていた。家の事とか、蒸し風呂の掃除とか、
「しごとするって、不思議」
揺れる鞄から、遠く城壁の中の明かりを眺めて呟いたのは、魔法使いには聞こえていないようだった。
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