第119歩: 石

 夢だった? でもここ、飛び降りたよな。あれ?


 目を覚ましてヨゾラは、すっきりしない気持ちでベッドの縁をにらんだ。何が見えるかといえば、古びたシーツと小さなテーブル、椅子、やたらと服。

  

 昨日は、ええと、途中でへばっちゃったんだった。それからどうしたっけ。アルルにほめられた気がするぞ? おしっこ行ったっけ?

 訊いて確かめたいけれど、その相手はまだ起きそうになく、ヨゾラはお腹がすいていた。

 ベッドから飛び降り、がっちん、と掛け金を外して潜り戸を頭で押し開ける。

 掛け金、もう掛けなくていいんじゃないかな。


 階段を降りれば、当たり前だけれど二階の廊下が見える。そこでケトが伸び上がっていた。


 伸びに伸びて、扉の取っ手を両の前脚で掴んでいた。ケトは大きな猫だけれど、あんなに長くはなかった気がする。

「ケトきょー、おはよ」

「うむ、ヨゾラ殿か。おはよう」

 扉の取っ手から前脚を離したケトの胴が、するっと縮むのが見て取れた。

「……魔法?」

「猫はよく伸びる、であるよ」

 便利だなぁ。

 階段の残りを降りながらそんな事を思う。こんもり大きな黒猫が扉を押し開けてから振り返り、こんどは廊下に置かれた籠のふちを咥えて引っ張る。

 ヨゾラは籠の反対側に駆け寄って、それを頭で押した。

 

 ずっ、ずいずいずり。


 服で満杯の籠が部屋に引きずり込まれる。

 カーテンが引かれて薄暗く、いろんな匂いの中に、ひとつ甘い匂いの混ざる部屋だった。なめらかに甘く、どこかぴりっとした不思議な香り。

「ごめんね、ケト」

 シェマの声が力なく漂って来る。アルルの部屋と同じベッドの場所、扉を入って右側から。

「珍しくではないか。あるじよ、ヨゾラ殿が手伝ってくれたぞ」

 扉を閉めながらケトが言ったところで、しっぽ髪はヨゾラに気づいたようだった。

「……ああ、ごめんなさいね。こんな格好で」

 横向きに寝ていたシェマが身を起こす。その様子が妙に弱っちいことにヨゾラは気がついた。昨日は目玉をギラギラさせていたのに、今朝はどうしたんだろう。

「だいじょうぶ?」

「ちょっと熱出しちゃっただけよ」

「かぜ?」

「たぶんね」

 ああ、とヨゾラは納得がいく。かぜの人なら先月に見た。

「だったら寝てなよ。あたし、もう行くからさ」

 かぜの人は寝かせておく。おでこ冷やす。そっとしとく。あの時はそんな感じだったはずだ。かぜっぴきのペブルさん。

「ヨゾラ殿の言うとおりであるよ、寝ていたまえ。あるじが病の時ぐらいは、私も使い魔らしく仕えて見せよう」

 王族ネコガトヒアウにしっぽ髪が苦笑いしながら横になる。

「自覚、あったのね」

「むろん。そうさな、茶など要らぬか?」

「できるの?」

「今なら、条件が揃っているからな」

 あるじの疑念に、ケトは力強く頷いた。

「そういうわけだヨゾラ殿。アルル殿を呼んできたまえ」

 その言葉に、ヨゾラとシェマが初めて声を揃えた。

 すなわち

「えぇええ……」



 部屋の隅に設けられた黒い鉄のコンロ台。アルルんにあるものよりはずっと小さいけれど、この部屋にあるものの中では一番大きい。

 そのコンロの前にしゃがんだアルルが、細い薪に火をつけて燃焼室の鉄扉をしめた。

「なるほどな」

「ごめん……」

 毛布を口元まで引っ張り上げてしっぽ髪がもごもご言う。

 さして大きくもない宿舎の部屋に、ヒト三人とその連れが勢揃いしていた。

 つまり「あれ、先越されちまったなぁ」という第一声と共にハマハッキとハニも来ていた。



 アルルを呼ぶのを、しっぽ髪はいやがった。まだ寝てるだろうし、疲れてるだろうからこれ以上甘えられない、とも言っていた。ヨゾラはヨゾラで、ケトが自分でやらない事に突っ込まずにはいられず、そうこうするうちにアルルのほうからやってきた。

 遠慮がちに扉を叩いたその第一声は

「シェマ、寝てたらごめん。ヨゾラのやつが邪魔してないか?」

 だった。


 アルルの火付け、ハマハッキの水くみ。


「あたし、邪魔なんかしてないよ」

 と足元から文句をつけたら

「それは言葉のってやつだ」

 と返ってきた。「ことばのあや」がわからなくて説明してもらったら、めぐり巡って自分がシェマの部屋にいた理由を話すことになった。

 それで、「なるほどな」だ。


「まぁいいんでないですか? 同じ職場、同じ宿舎のよしみってことで」

 カーテンを開けて縦長ハマハッキが言う。

「ハマハッキ様、お優しぃ」

 天井に張り付いたハニが言う。

「シェマ、麦使っていいか? お粥でもつくるよ」

 アルルの手は麻袋を指している。

「あんまりしょっぱくしないでよ」

 ヨゾラは自分も食べる気まんまんだ。

「あるじ、そろそろ観念し給えよ」

 してやったり、という感じでケトがいうと、しっぽ髪が

「はぁい」

 としおらしく返事をした。



 それぞれの部屋から、食器を持ち寄る。

 麦粥を作る鍋からぷつつぷつつと音がする。



 顔が縦長ハマハッキは動きがいちいち大きいけれど、いいやつだな、というのがヨゾラのざっくりした感想だった。干し肉をもらったからではない。

「アルルさん、お茶の葉も食べる派?」

 というところから、男二人の間で話が盛り上がり始めた。旅の間はあんまり野菜も食べられないけど、お茶の葉を食べておくと風邪をひかないのだそうだ。

 アルルも野宿の時、お茶の葉と塩漬け肉でスープにしていた。苦くてしょっぱい、ヘンな味のやつだ。

「……食べないわよ、私」

 ベッドに腰掛け、すとんとした夜着と巻布ストールと毛布にくるまったしっぽ髪が、お茶の葉を食べさせられて苦い顔をしたのは、このすぐ後の話。

 ケトがいちばん面白がって煽っていた。

 そのケトの背中によじ登って、ヨゾラは遊んだりした。



 ハマハッキはあちこち旅をしては働き、旅をしては働き、という暮らしを続けているのだという。

「年? 今年で二十六だぜ。こん中じゃいっちゃんおっさんなのよ」

「ハマハッキ様ぁ、まだまだですよぅ」

 サンドホルムとか、クホームオルムとか、聞き覚えのある名前もちらほら出てくる。

「そういや五、六年前かなぁ。カヌスってとこで変な噂きいたぜ。化け物蛙が男をさらってったってよ」

 などと言うものだから、ヨゾラはアルルと顔を見合わせてしまう。

「あたし、その蛙知ってる」

「それ、俺の親父とその使い魔だ」

「は? え? ほーんとかよ。あんた南部の出じゃないの?」

 主にしゃべるのは男二人で、アルルんの話になったり、旅路で会った変な人の話になったりした。

 部屋の主はあまりしゃべらなかったけれど、話を聞いてくすくす笑ったりしていた。ヨゾラにとってヒトの顔の良し悪しはあまり良くわからない。けれど、この人の笑った顔は、ふん、かわいいの中に入れてやってもいいかな、ぐらいには思った。

 出来上がった塩漬け肉入りの麦粥はおいしかった。


 誰も、昨日の話をしなかった。


「じゃ、おれたちゃこれで。騒がしくして悪かったなシェマさん」

 最後、ハマハッキがそう言って席をたつと、ベッドの上でシェマは首を振って

「楽しかったわ。ありがとう、二人とも」

 と笑って見せた。

 今日は、楽しい日になるかな。

 ヨゾラがそんな事を考えたのと

 

 ぱん!

 

 と音を立てて窓が割れたのが同時だった。

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