第118歩: 闇夜に踊る洗濯物

 世話好きなんだな、とアルルは思った。アリスコの事だ。具合が悪そうだから代わりに洗濯をしよう、とはなかなか思わないんじゃないだろうか。

 しかもこの時間だ。アルルだって、いつもなら洗濯は朝にやる。

「泡魚ちゃんって、素敵よねえ。お洗濯がとーってもはかどるんですもの」

 夜だからか、アリスコが小さな声でふわふわ言う。それにしても泡魚とは。

「泡魚ちゃんの『しるし』、なんとかして見つけたい所よね。お洗濯に魔法のたらい、素敵じゃなーい?」

 それにはアルルも同意した。洗濯は大変だ。


 ぷちぷち弾ける泡に栗色の目を走らせるこの女性には、当然ながらえているのだろう。「不思議なものたち」の中にはを持つものがあって、その象形が魔法陣の要素になる、事がある。


 身体の模様、足跡、飛行する軌跡。数学者と組んで調査する魔法使いもいれば、鳴き声を譜面とやらに記して読み解こうとする魔法使いもいる。

 そうして見つかった象形を、帝国インペリオ時代の遺物から拾った意匠や、偶然発見した図形と組み合わせて魔法陣は発展していったと、アルルも父から教わった。クロサァリ学院でも毎日のように実験と失敗が繰り返されているはずだ。


 生まれてはすぐに消える泡魚のしるしは、まだ見つかっていない。


 泡魚を追うのに疲れたのか、目をしょぼつかせながらアリスコは自ら運んできた洗濯籠を眺める。

「意外とシェマさん、洗濯物……溜めちゃうほうなのねぇ」

 シェマもそんな事知られたくなかっただろうな。

「俺だって、もう着替えが無いから今洗ってるだけですよ。シェマの具合、どうですか?」

 魔法フィジコを操りながらアルルは尋ねた。

「そうねえ。熱があるだけのようだし、傷の手当てもちゃんとしたようだし、若いんだもの。ちょっと休めば大丈夫よ」

 若くたって疲れるよ、と青年は小さく反感を覚える。

「あいつ、いちど重い塩切れ起こしたんです。今日は本当に無理してました」


 協会で休ませた方が良かったのだろうか。


 ──先に行く。後から来い。


 あの時、本心からそう言った。一緒に戦って欲しかった。何もできなかったと悔し涙を流したシェマに、休んでいろなんて言えなかった。

 現場に出て必死に働いて「何もできなかった」が「ほとんど何もできなかった」に変わった程度かもしれないけれど。

 

「アルルさん?」

 アリスコの声で我に返った。魔法フィジコの操作から気がそれて、群青のつつはかまにひたすら宙を往復させていた。

 これ、今日シェマが着てたやつだな。

 意識してしまうと妙に生々しい。

 おぶった時の、さらさらとした布の手触りを思い出した。それをきっかけに、彼女の体の柔らかさも思い出されて、顔が熱くなってくる。気持ちの収まりがひどく悪い。

 体は反応しないクセに気分だけは感じるのかよ。

 再び魔法に集中したつもりで、思ったよりも強く筒袴を陶板タイルに打ちつけ、アリスコにたしなめられる。



「──シェマさん、ずいぶん頑張ったのよね」

 声にアリスコを見ると、いつの間にか使い魔の飛び蜥蜴が彼女の腕に乗り、前脚の飛膜を長い舌で掃除していた。

「お二人とも、ガザミ腕にいらっしゃったんでしょ? アタシは十区にいて、協会についたのは水が引いた後だったのよ」

 昼間の惨状がアルルの脳裏をよぎり、「糸」が切れそうになって慌てて立て直す。

 目の奥がチカチカと瞬いて、言葉にできたのは一言だけだった。

「ひどい、ものでしたね」

「本当に、ひどいものだったわ」



 闇夜に魔力燈の灯りを浴びて、たらいと陶板タイルの間を洗濯物が踊る。



 アリスコの飛び蜥蜴トカゲはロヒガルメちゃんと名乗った。ちゃん、までが名前だという。

 樹皮色の身体にかすれた声で「ロヒガルメちゃん、密林の子。水、よく吸う」と洗濯物から水気を吸い取ってくれたので、干す手間がなくなった。

 そんな使い魔の活躍に目を細めてアリスコは

「アタシたちも間に合っていればね」

 と呟いた。

 その口調はふわっとしなかった。


 洗い上がりを抱えて帰り道の事をアリスコに尋ねたら、一階の管理人部屋で寝ていくという。

「ここの管理、アタシとマヌーさんでやってるのよ」と。


 二階へ昇る足音を聞きつけてか、ケトが使い魔用の潜り戸から出迎えてくれた。王族ネコガトヒアウの言う事には、あるじは眠ってしまったと。アリスコが洗濯籠を廊下に置いて、起きたらよろしくねと使い魔に言付けた。

「俺にできる事があれば、遠慮なく知らせてくれ」

 アルルもケトにそう伝える。

「あるじに代わって感謝であるぞ、アルル殿」

 王族なのに使い魔というのも、奇妙な取り合わせだな。


 アリスコと飛び蜥蜴ロヒガルメちゃんに挨拶をして部屋に戻る。

 三階ってしんどいな、と思うぐらいに脚も体も重苦しかった。扉の錠前を開けて暗い部屋に向き合うと、闇の中から声がした。

「アルルー?」

 ベッドの枕元あたりからだ。鞄から出しても起きなかった黒猫が、ようやく目を覚ましたらしい。

「悪いな、起こしちまったか」

 ごく僅かな月明かりを頼りに、抱えた洗濯物を部屋の真ん中、小さなテーブルの上に置く。

「んー……おかーえりー」

「ただいま、ヨゾラ」

 コート、ジャケット、シャツと外して椅子の背に無造作にかけていく。ホップが見たらお説教をもらいそうだ。


 長い長い土曜日ティエハが終わる。

 

 靴とズボンも脱いで、そこまででもう面倒くさくなってベッドに入った。鼻先に猫の尾が触れる。

 アルルは手を伸ばして、その背を撫でた。

「今日は、お疲れさん。頑張ってくれてありがとうな」

「へへへー。わたしもおやくにたちましたかぁ?」

「なんだお前、寝ぼけてんな」

 丁寧語なんて、ヨゾラにしてはヘンな言葉遣いをする。

「うー、おしっこ」

 話を聞いていない。やっぱり寝ぼけているようだった。

 黒猫がするりとベッドから飛び降りたので、元気にはなったんだなと思った。

 良かった。


 ヨゾラが潜り戸から出て行った頃にはもう、アルルは眠りに落ちていた。

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