第117歩: 土曜日はまだ終わらない

「いやぁ、個人的にはとても残念だけど、俺の背中はハニちゃんのモンでさ。悪いねアルルさん」

 銀毛の蜘蛛が張り付く背中に、アルルはついていく。

「……ごめん」

 シェマの声が耳許でするのが落ち着かない。

「いいって。旅用の鞄に比べりゃ軽いもんさ」

 だいぶ嘘ではあったが、アルルはそう言っておいた。

 シェマは意外と小柄だけれど、大人ひとり、そう軽くはない。

 


 解散になっても一向に動かなかったシェマの様子には、協会の誰もが気づいた。支部長を始め「宿直室で休ませよう」と皆が口にしたが、この魔法使いの娘は「大丈夫ですから」とかたくなに立ち上がったのである。

 が、殿でんおおの途中、遅れに遅れたガス灯の点灯夫とすれ違った辺りでふらふらとへたり込んだ。



「アリスコさん、お住まいは二区のほうじゃありませんでしたっけね?」

 先頭のハマハッキが振り返る。

 協会を出るところから、アリスコ・レンタがついて来ていた。フーヴィアをふた周り大きくした、またはエカおばさんをふた周り小さくしたような栗毛の魔法使い。

 見た目も声もどこかふわふわした人だった。

「そうですけどねハマハッキくん? 確か、いま宿舎に居るのあなた方だけでしょ? アタシが居た方が何かとよろしいかと思いますよ?」

「はぁ。まぁ確かに」

「すみません……」

 ハマハッキが曖昧な返事をし、背中のシェマが消え入りそうな声を出す。

「いいのよ。うち帰っても一人だもの」


 おぶってわかったが、シェマはどうやら熱を出していた。触れる部分のどこもかしこも熱い。

 今日を思えば無理もないよなと思う。

 ケトがついているとは言っても、部屋に送り届けてそれでおしまいというわけには行かないだろう。

 看病したくないわけではもちろんない。けれど、女性の手が必要になる場面は容易に想像できた。

 アリスコさんが来てくれて良かったと思う。


 人通りはごく少なく、巡回中のけいと軍人ばかりが目に付く。時折どこかから争う声や呼び子笛が聞こえてくる。高波の被害を受けた区域は限定的でも、街全体がどこか浮き足立っていた。


 フラビーは無事に帰れただろうか。


 ケトが頻繁にあるじを振り返っては様子を見ている。

 シェマの手には、ハニの糸で塞がれた傷が幾つか見えた。手袋状の糸で防ぎきれなかった傷なのか、防ぐ前にできた傷なのかはわからない。

 午後にアルルが山彦笛を吹いた時、ハマハッキは協会の近くでマヌーと一杯やる所だったという。笛を聞いて急いで駆けつけ、その場をマヌーに任せて協会を出たそうだ。

 だから早かったのだ。



 妃殿下大路を外れ、宿舎に続く道へと入る。

「おいでませいなホタルノヒカリぃ」

 先頭のハマハッキがを呼び出した。名前の通りだ。蛍の光の、光だけ。蜘蛛の使い魔がついているだけあって、虫がらみのと相性が良いのだろう。

 数百の蛍火が照らす道の向こうに、宿舎の影が見えてきた。


 

 二階の、階段に一番近い部屋がシェマのものだ。中に入ってアルルが背中から降ろすと、シェマはふらふらとベッドに腰掛けて白い顔で言った。

「アルルくん、ごめんね」

 彼女が弱っているのを見るのはいたたまれない。

「いいって。俺の方こそ、この二日でいろいろ世話になってるんだ。何かあれば言ってくれ」

「アルル殿、ハマハッキ殿、私からも礼を言う。助かった」

「いやぁオレは何もしてないし。お礼なんかいらんぜ」

 ケトの言葉に、ハマハッキが事実に近い謙遜をした。

「では、殿方はここまでで結構よ。お二人ともお疲れ様でした」

 アリスコ女史が帽子を取ると、中に使い魔の飛び蜥蜴トカゲがいた。まだ一度も話しているのを見ていないが、トカゲの使い魔はみんな無口なのだろうか。

 長かった土曜日ティエハが終わろうとしている。


 蜘蛛の魔法使いは二つ奥の部屋だった。ちょうどアルルの部屋の真下だ。

 挨拶をして、階段を上ろうとし、アルルはハマハッキを呼び止める。

「実は、少しお願いがあるんだ」

「おっと。なんなりとどうぞ?」

「申し訳ないんだけど、石鹸と、あと、その……何か食べるものをわけてくれないか」



 まだ土曜日ティエハが終わっていなかった。



 時刻はわからないが、欠けはじめた月が東の城壁を越えて空に見える。

 たらいに張った水と洗濯物を魔法フィジコでぐしゃぐしゃとかき混ぜ、井戸周りにしつらえられた波形の洗濯陶板タイルにバシバシと叩きつける。

 体を動かすのは億劫だった。四本の「糸」を繰りながら片手はコートのポケットに突っ込んで、洗濯物が踊るのをアルルはぼんやりと眺めていた。


 こんなことばっかり。

 こんなことばっかり上手でもな。


 ばしっ! と肌着の一枚を陶板に叩きつける。同時に、背後から白い光に照らされた。たらいと洗い場が闇の中に浮き上がる。

「アルルさん、でよろしいのよね? あなたもお洗濯?」

 逆光に目を細めると、手に魔力燈を提げ、洗濯籠を抱えたアリスコがいた。

「話にはきいていましたけれど、実際みてみると不思議な魔法ねぇ。フィジコ、というのでしょ? 便利そうで羨ましいわぁ」

「ああ、はい、アリスコさん。アルルで合ってます。使いさしの水でも良ければ、一緒にやってしまいますよ」

「あら、親切なのね。ありがとう。なら、お願いするわね」

 アリスコが洗い場脇に魔力燈と籠を置く。

「繊細なものもあるから、さっきみたいに乱暴にしてはダメよ? 優しくね」

 ふわっと言われて、アルルは察した。

 アリスコが持って来た時点で思い当たりそうなものなのに、実家には男しかいないので考えもしなかった。


 洗濯物は全部女性ものだ。そして、どう考えてもシェマのものだ。


「おいでませーい泡魚アワウオちゃん」

 ちょん、と可愛らしくの水に触れて発動するアリスコの魔法。ぷくぷくと泡立つ水。

「じゃあ、お願いしちゃうわね」

 今度は光に照らされて、にっこり笑うアリスコのふくふくした顔がはっきり見えた。

 手で洗濯していなくてまだ良かった。

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