第80歩: モッサナフロレッタ
蛇の口の中、朝陽も森も
そんな光景は一瞬。
突然の暴力的な身体の重さ。アルルが四つん這いに身を低くかがめる。ぼんやり歪んだ風景が縦に流れる。地面が遠のく。水塊越しの空に包まれる。
身体の重さが逆転して、同じ力が今度は上へと。
べっ。
「たかぁぁぁぁーいっ!」
悲鳴とも歓声ともつかない声がヨゾラの口を付いて出た。
蛇がその身を跳ね上げ、黒猫と魔法使いを高く宙空へ吐き出したのだ。
ペブルとホップが豆粒に見える。林の中に円く開けた所が二つ。アルルの家とエカおばさんの家だ。
誰かおばさん
その屋根をカケスが突っ切るのが見えた。
ばすっ!
「翼」の開く音。
人の目に見えない、
へばりつくように点々と緑が並ぶ畑を越え、煙突から立ち上る朝の煙を横切って、カケスは南側の森へと向かっていた。
アルルが頭を下げ、加速をかける。カケスとの距離が詰まる。
ヨゾラが一緒に飛んだのは今までで二回。その時と比べて、アルルの魔力の減りは緩やかに感じられた。
羽ばたくのが大変なのかな、と思う。
道沿いの畑と家が途切れ、森が近づく。
風が唸り、空気が重たい塊になって顔をなぶっていく。
目を細め、空から南の森を見てヨゾラは違和感を覚えた。
なにか歪んでいる。
道から右へずっと外れたあたり、一際高く伸びたアカマツのあたりに、木々が揺らいでいる一角がある。木だけじゃない。その周りの空気も揺らいでいる。空気に厚い所と薄い所がある。目がおかしくなったのかと思えた。
カケスは揺らぎへ真っ直ぐ飛んでいく。
「アルル、ヘンだ。今向かってるところ、森が揺れてる」
「
短い返答。飛んでいるあいだ、アルルはあまりしゃべらない。短く大きな呼吸で絶えず魔力を取り込み「翼」を操るのに集中するのだ。
眼下の
カケスはいよいよ揺らぎに飛び込み
「消えたっ?」
直後、アルルもそこへ飛び込んだ。
ざわり、と違和感がヨゾラのヒゲをなでていく。
突如として森が延びた。森の終わりが見えなくなった。
がくん、とアルルの体が揺れる。すぅっ、と身体の中身が持ち上がる感覚がある。
「アルルっ!」
「わるい……! 驚いただけ」
体勢を立て直し、アルルが食いしばった歯の間から言葉を絞り出した。今ので、アルルが体に溜めた魔力もぐっと減った。
カケスは──いた。
アルルが追う。豊かな葉の海が眼下を流れていく。
突然、カケスが森に潜った。アルルは潜らない。二、三度はばたいて体を起こし、手近な木のてっぺんに手をかけて取り付く。
ざん!
幹が揺れ、足をかけた若い枝がたわんだ。
カケスは見当たらない。
大きく息をつく魔法使い。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫。最初にミトグロで高さを稼いでもらったからな、いつもより余裕あるよ」
ヨゾラの問いかけに答えながらアルルは足下の森を見回し、ほうっ、と息を吐いた。
「……淑女の森、かな」
「しゅくじょ?」
「女の人の事だ。今回は、女みたいなもの、か。だとすれば、エルクの奴はまぁ無事だろう」
アルルが鞄から塩を一粒出して含んだ。
「ヨゾラ、降りられるか?」
襟ぐりから見下ろすと、木はけっこうな高さがあった。ざっとアルルが十人分ぐらい、つまり二十一
登るのは簡単でも、降りるのは
「自信、ない」
「糸」で降ろしてもらった。
かすかにヒトの声が聞こえる。
葉ずれの音に見上げると、アルルが次々に枝へ手をかけ、幹を伝ってするする降りてくる所だった。
そして最後、なかなか高いところから、すたん、と飛び降りる。
「うまいんだね」
思わずそう言うと、魔法使いはしゃがんだままにやりと笑って、すぐに真顔に戻る。
「ヨゾラ、人の声とかカケスの声、聞こえるか?」
「こっち」
しゅっとヨゾラは駆け出す。止まる。振り返る。アルルがしゃがんだままついて来ない。
「なにしてんの?」
「……大丈夫だ」
そろそろと立ち上がっていく。
「足痛いとか?」
「だいじょうぶだっ」
立った。怪我をしたわけではなさそうだった。
「こっちだよ」
ヨゾラの耳に時折とどく声はみっつ。鼻にかかった若い男の声と、訛りのつよい女の声。じぇ、じぇ、というカケスの声。
今度はアルルもちゃんとついて来た。
妙に騒がしい森。
鳥、虫、獣の立てる音がそこかしこから聞こえて、耳が忙しい。リス、テン、鹿、猪。ちょっと歩いただけで目にした動物たち。
倒木をツンツンと小さなキノコが飾り、黄色や紅色の薄衣のようなわさわさが覆い、岩もコケで緑に染まっていた。
歩く度に枯れ葉がカサコソ鳴る。
木々の葉もよく茂っていて、例えばシロハナスノキの花が咲き、別の枝には実がなっていた。しかし「不思議なものたち」がまったくいない。
「揺らぎの向こうにあって、季節がむちゃくちゃ──やっぱり淑女の森だろうな」
小川をひとつ飛び越えてアルルが言う。
「運がいいんだか悪いんだか」
油断なく、と言うよりは、観察するように魔法使いが森を見回して呟いた。
人の声はたまにしか聞こえない。たいていは女が先で、男が後。
──確かに、だれか
女の声がそう言ったのがわかった。
「アルル、なんか気づかれたみたい」
足元からそう告げる。
「こっちも隠れるつもりないしな」
と返って来た直後に、大きな男の声が森にこだました。
「アルルよぉー! この鳥、おめーだろ!? どんだけ歩いっても出られやしねーの!
元気そうで何よりだ、と呟いてアルルが叫び返した。
「エルクよお! 森で変なもん見たらついて行くなって散々言われてんだろうが!」
「でもよーアルル! 女が一人で森にいたらよー!」
おそらく息継ぎの間。
「なんか困ってんのかなとか思うじゃねーか!」
いいやつっぽい。
「この場合は、殴んなくてもいいのかなぁ」
とアルルがよくわからない事を呟いた。
声はもう遠くない。ヨゾラのくぐる低い茂みの向こうに、
大きなアカマツの周りにぽっかりとあいた、緑天井の広場。朝の木漏れ陽を受けて、女のしなやかな身体の線が軽やかな布地に透けている。
「
女の声は高く涼やかで、仄かにかすれていた。整った顔立ちは柔らかな頬の曲線と相まって、少女のようにも見える。
「会うのは初めてだと思うよ?」
茂みを回り込んだアルルの足が見えた。
ヨゾラも茂みをくぐり抜けた。「おっ、猫!」と言う丸鼻丸顔の声。
「あんた、
アルルが手から何かを口の中に放り込む。
森の淑女、と呼ばれた女が顔をしかめる。
「塩か」
「悪く思うなよ。
女は大きなため息をついた。
「お
淑女とヨゾラの目が合う。新緑の色をした、湧き水みたいに透明な瞳。ああ、これはヒトじゃないんだな、とヨゾラは感じた。
「これはまたちんきな獣よな」
とそのものは言う。視線が深い。目を合わせていると深いところに入り込まれるような気がする。
「こいつは俺の連れだ。早速で悪いんだけど、そこの青い上っ張り着た丸顔筋肉は俺の友達でさ。かえしてもらっていいか?」
「丸顔いうなビッコ! 鼻つぶすぞ!」
エルクが座ったまま怒鳴り返す。抱えた四角い
森の淑女は腰に手をあて、呆れたように答えた。
「帰すもなにも、この男が吾について来ただけぞ。傷つけもしとらんし、ちゃんと食わせさえしとる。だいたいのう」
そして手近な木の枝から数枚の葉をちぎり、むしゃむしゃと食べる。
「この
ごくん。
「強情はらずに素直に精をくれとりゃ、とっくに帰しとったわいな」
せい?
「せいって何?」
ヨゾラは尋ねた。
全員黙った。
「猫がしゃべった」
ぽつんと丸顔筋肉が言った。
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