第138歩: もしあたしがヒトだったら
そこかしこの軒下や路地にうずくまって寝ていた人が、足音に顔を上げる。その顔は怯えているか、虚勢を張って足音の主を睨むかのどちらかだった。
家を失い、お
さっき始まったおしゃべりはすぐに終わって、三人の足音だけが続いていた。ケトの足音は、ヨゾラの耳にも聞こえない。
緊張感。
二日前に感じたのと同じだ。首元から背骨のあたりがひんやりする。
一昨日の、
「アルル、りゅうってさ……あ、思い出せた。いいや」
「そうか?」
アルルがほんの少し残念そうに言う。
「あ、でもさ、海竜って、亀だよね。亀だったよ。ばかでっかい亀。なんで竜なの?」
「それは知らないけど、こいつに書いてあるかもな」
アルルがテーブルに積まれた何冊かの本を指さした。
「あとアルル、いまさらって何?」
本を借りるときに、アンニさんにアルルが言っていた。
いまさらですけど調べておきたくて。
「今更ってのは、そうだなぁ。もう遅いとか、もう間に合わないのにとか、そんな時に使うよ。──海竜の事を調べるのなんて、もっと早くやんなきゃいけないのに、いまごろ慌ててやり始めてる。だから『今更ですけど』って昨日言った」
わかってるんだぜ? みたいな顔をしてきた。
そーですかー、って顔で返してやった。
「えっと、あとは……『くんせい』ってそもそもなに?」
「腐りやすい物を煙で燻して、長持ちするようにした食べ物。──シェマんとこ、行くんだろ?」
耳が、ひゅっ、と倒れるのを感じた。訊かれてしまった。
「……うん。行くよ。行くんだけど、さぁ」
行くんだけど、まだもうちょっと。左前脚の毛並みがハネててなんだか気になって、舐め繕う。
「ヨゾラ。お前もしかして緊張してるのか?」
アルルの声。見上げれば、目を細めてじっと見ている魔法使い。
キンチョーカン。緊張感。これなのかな。
「わかんない。しっぽ髪と話したいけど、話すのもうちょっと後にしたい。降りて行くのがなんだか……」
うまく言えなくて、口がむぐむぐした。
「二階まで俺もついていこうか?」
「いい! ひとりで行く」
アルルがいたらダメなんだ、と思う。そのアルルはおでこに手を当て、指でぱらぱらと叩くと椅子から降りた。
「あのな、お前がシェマと何を話したいのか知らないけど」
しゃがんで、黒い瞳で見つめてくる。
「ちゃんと話せば、聞いてくれるよ。お前に意地悪は言わないと思うぜ」
アルルの瞳に、ちっこい、猫の形のものが映っていた。それが自分だというのはもちろんわかった。ぺたんこ鼻の魔法使いが、まっすぐ自分を見てた。
アルルの目は、しっぽ髪みたいに光らない。だけどなんだか透明だ。黒いくせに。透明で、今日は静かで、見てると落ち着いてくる。
ペブルさんみたいだった。
「……行ってくるね」
「おう、行ってこい」
その言い方も、ペブルさんみたいだった。
部屋の扉を三回たたいたら、しっぽ髪が開けてくれた。髪は縛ってないから、しっぽなしだったけれど。
「おはようヨゾラさん。お行儀いいのね」
「そうかな? しっぽ髪おはよ。今日は色ちがうね」
「色?」
しっぽ髪が目を丸くして自分の手なんかを見始めた。
「青とむらさきがないじゃん」
「ああ、服ね。今日こそ洗濯しちゃおうと思ってるのよ」
ヨゾラの視野の端っこに洗濯カゴも見えた。
見慣れた青い服が一番上にかぶさっていて、この日のしっぽ髪はゆったりした毛織りの長袖と、
どうぞ、と促されて中に入った。この部屋はやっぱりハッカ
「ケトきょーは?」
「いつの間にかいなくなったわ。主人に一言あってもいいのにね」
シェマが苦笑いを浮かべ、床に脚を組んで座る。ベッドに背中を預けて、ヨゾラに向かって首を傾げてみせる。
始まりの合図だ、と思った。
訊きたいことを真っ直ぐに口にした。
「あたしとキミで、なにが違うのかな?」
シェマの目が丸くなっていくのが見えた。その中を、薄茶の瞳がゆっくり一周していくのも。
「それは、なにもかも、違うわよ。私はヒトで、あなたは……ヒトじゃない何かで、でも、そんな話がしたいの?」
「うー、ちょっと違う。あたしとキミたちが別なのはあたしもわかってる。そうじゃなくて、知りたいんだ。アルルが」
アルルの名前が出ても、しっぽ髪の表情は変わらなかった。
「キミと一緒にいると、あたしの知らないアルルになるんだ。キミにだけ見せる顔があるんだ。キミからの手紙を見ただけで、すごく優しい顔するんだよ。フラビーにはあんな顔しないし、アルルのお父さんにもしない。キミだけだ。キミだけなんだ。あたしも、あんなふうに見てほしいのに。あたしは、それが、イヤで──なんでなのか知りたいんだ。あたしとキミで、何が違うの?」
ヨゾラが言い終わると、シェマは一度くちびるを湿らせた。
「ヨゾラさん、あなた──」
薄茶の瞳が揺れていて、その揺れにヨゾラは不安になる。しっぽ髪は、暗闇を歩くような調子で、ゆっくり言葉を継いだ。
「──私は、あなたとは知り合ったばかりで、どういう子なのかをそんなに知らない。何者なのかもね。でも悪い子じゃないっていう事はわかってるつもりよ。ケトもあなたの事は可愛がっているし、アルルくんが、あなたを大事にしてるなっていうのも、見ていて感じるわ」
胸の中がくすぐったくなるような気持もあった。でも、首元から背骨が冷えていく気持ちのほうがこの時は強かった。
きっとよくない事を言われる。ヨゾラが予想した通りに「だけどね」としっぽ髪は前置きした。
「あなたが見て欲しいと思うようには、アルルくんはあなたを見ないと思う」
反射的に「なんで!?」と口にしていた。しっぽ髪が急に憎らしく見えた。
下唇を噛んで、両手の指を固く組んだシェマの気持ちはヨゾラにはわからなかったけれど、続いた言葉は忘れられない。
「ヨゾラさんが──ヒトではないから」
「でも、だって、そしたら何でキミだけなのさ!? 他のヒトには見せないのに、おかしいじゃんか!」
「怒鳴らないで。私だってあなたを傷つけたいわけじゃないわ」
しっぽ髪の目がぎらりとした。かまわず睨み返した。睨みあったまま、しっぽ髪の瞳から光がゆっくり引いていくのを見た。
「きっと、昔を思い出してるだけよ」
薄茶の瞳が、今度は寂しげに揺れる。
「私とアルルくんは、たぶん、恋人同士だったから」
しっぽ髪が目をそらした。ヨゾラは、その横顔に問いかけた。
「こいびとってなに?」
「……そこからなのね」
シェマが両目をぎゅっとつぶった。
恋人。お互いに好きな、つまり特別に大事に思い合うふたりの事。ピファちゃんとウーウィーくんは、そうだったのかもしれない。恋人になるとそのうち夫婦になる。フーヴィアとエルクみたいに。でも、ならないこともある。アルルとシェマみたいに。
ヨゾラは、そう理解した。
「恋人同士だったのに、住むところが遠く離れてしまって、終わることもあるわ」
そう言って、シェマは説明を締めくくった。
「でも、アルルもあたしを大事にしてるんなら、なんでその『恋人』にはならないのさ? あたしだってアルル好きなのに」
不満とともにヨゾラは椅子に飛び乗った。床に座るシェマと顔の高さが揃って、彼女の表情には、なにか覚悟を決めたかのような静けさがあった。
「アルルくんが、あなたをとても大切にしてるのはわかるわ。きっと、信頼もしてる。だけれどね、恋人にするような相手だとは、女の子だとは思っていないのよ。あなたの事はもっと別な、たぶん、家族だと思ってる。あの子……あのひとがあなたに接するのを見ているとね、そんな風に見えるのよ。あなたを見るとき、昔のアルルくんなら見せなかったような顔をするもの。──子どもみたいに思ってるのか、妹みたいに見ているのかわからないけれど、ヨゾラさんも、アルルくんの特別ではあるのよ」
「でも、あたしの欲しい特別とはちがう……」
「そうね。でもそれは、私にはどうにもできないわ。残酷だけど、ヒト同士でもそういう事ってあるの」
静かに告げたシェマの顔には、なにひとつ嘘がなかった。優しくはなかった。瞳がいじわるに光っているわけでもなかった。ただ、事実を述べて、ヨゾラが受け取るのを促していた。
胸の奥の方が柔らかく握られて、そこから目と鼻へ向かって何かがじわりと流れてきた。
「もしあたしがヒトだったら、あたしの欲しい特別になれたのかな?」
しっぽ髪が首を振る。
「わからないわ。人の気持ちなんて、どうなるかわからないもの」
「あたしをヒトにする、魔法って、ないのかなぁ?」
しっぽ髪が首を振る。
「あといっこ、訊いていい?」
しっぽ髪が頷く。
「今あたしが、感じてる、気持ちは、せつない、で、いいのかなぁ……っ」
声がうわずった。しっぽ髪が息を飲んだ。薄茶の瞳が潤んで、ためらいがちに細い両腕が伸びてきた。
「いらっしゃい、ヨゾラさん」
この日、ヨゾラはたぶん生まれて初めて、泣いた。
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