第139歩: 二人で。いっしょに。
ガザミ
あのあと、どれぐらい泣いていたのかヨゾラにはわからない。ずいぶん長い間泣いていたようで、でも実際にはそんなに長くはなかったのかもしれない。
お昼過ぎにアルルが戸を叩いた時には、泣くのが止まっていたのを覚えている。でも、しっぽ髪は「まだもう少しかかるから、終わったら帰すわ」と扉の向こうへ大きな声を出した。
──もう少し落ち着いてからの方がいいでしょ?
と小声で言われ、思わず頷いた。なんでわかったのか不思議だった。あそこでアルルに会ったら、もう一度泣いていたんじゃないかと思う。
不思議な人だと思った。すごく嫌な事を言われたのに、一瞬、憎らしくも見えたのに、なんでこの人の膝の上にいて、この人を嫌いになれないでいるんだろう。
ねぇ、しっぽ髪、と問いかけた。
キミはアルルの「恋人」だったんだろ? キミもアルルが好きなの?
──アルルくんを見てるとね、しっかりしなきゃな、負けられないなって思うのよ。あのひと、フィジコの事が知りたくて、高い学費を払って学院にまで来たのに、先生方にも詳しい人がいなくて。だから、毎日自分で研究してたわ。他の勉強の合間にね、何ができるか、どういう使い方ができるかって。
しっぽ髪は目を伏せて、ぽつぽつと語り出した。
──最初の頃は、とても、ピリピリしてたのよ。一年分しか学費が用意できなかったそうだから、焦っていたんだと思うわ。『不思議なものたち』が
私は、それを見ていて──
好きになった。
そうしっぽ髪は言った。
今の話だよと文句を言ったら、答えの代わりにこんな話を聞いた。
──あのね、二年前までね、私には別の恋人がいたの。だけどウ・ルーへの派遣が決まって、離れ離れになって、それでおしまい。去年に結婚したそうよ。……アルルくんとは、また会えて良かったって思うの。話していて、やっぱり楽しいなって思うの。でも私は……アヴァツローに帰ってしまうから。
なんだよ、とその時思った。
なんだよ。あたしの欲しいものもらってるのに、なんだよ。なんだよ。帰るなよ。ずるいよ。そんな顔するの、ずるいよ。しっぽ髪、キミも
せつないんじゃないか。
その人は今、まっすぐ前をだけを見て先頭を行く。ケトが足音もなく付き従う。
海竜を捕まえに行くのはしっぽ髪も怖いんだと言った。でも、怖いけれど、逃げたくないと。
──何もできなかったなんて言うなって、アルルくんは言ってくれたけどね。だけどやっぱり、何もできなかったって思ってしまうのよ。その気持ちのまま、私は帰りたくない。この街をめちゃめちゃにしてる大亀を、放っては帰れないわ。
それに、船が出ないと帰りが大変なのよね、としっぽ髪は笑い顔を作って付け加えた。
けれど故郷のおばあさんに手紙を書いて、これが最後になるかもしれないと思ったら、やっぱり泣いてしまったんだと言った。
──もし、バクラウァってお菓子をどこかで見かけたら、一度食べてみて。とってもおいしいから。
お酒とどっちが好きなのか聞いたら、ぶんやが違うから比べられないと言われた。
それからしっぽ髪は、クロサァリ学院でのアルルを教えてくれた。
知らなかったアルルの話は、楽しかった。
ヨゾラも、アルルと出会ってから今までの事を話した。
傷を舐めて治した話には、しっぽ髪も興味があるようだったけれど、詳しくは訊いてこなかった。
アルルを見ればまだ、胸の奥は柔らかく握られる。
ぺたんこ鼻の感触が、まだ背中に残っている。
茶色い肌の黒い瞳が、いつのまにかこちらを見ていた。
ヨゾラは頷いて返した。あたしは大丈夫、と込めて。
しっぽ髪と何を話したのか訊かれたから、昔のアルルの話だと言っておいた。全部じゃないけど、嘘でもない。
アルルは「ちょっと待て何を聞いたんだ?」と慌てたけれど、内緒だと言って、からかってやった。
しっぽ髪に訊くかなとヨゾラは思ったけれど、今のところそういう気配はない。
訊かれたって、もうかまうもんか。
アルルは足元を見た。
せっせとヒトの歩幅についてくる小さな黒猫が何を考えているのか、わかるはずもない。
──
日が落ちても帰って来ないので迎えに行ったら、十一区をずっと行った農場の柵に乗って、藍と橙の隙間に浮かぶ街の影をぼんやり眺めていた。
「アルル……来てくれたんだ」
ふんわり力無く声を出し、口の端を持ち上げ笑って見せたヨゾラは、やはりいつもと様子が違っていた。
初めて見る表情だった。
──アル
結婚前夜で感傷的になっていた妹分の、やけに
「どうした? 狩りに失敗でもしたのか?」
同じ柵に寄りかかって、つとめて軽く問いかけた。一呼吸おいて、ヨゾラがくすくす笑った。
「あたし、狩り上手いよ。頭いいもん」
「じゃあ……シェマと何かあったか?」
あの先輩には怒りっぽい所がある。ヨゾラの直截な言い方でこじれたか、とも思ったが、黒猫は首を振った。
「んーん。そういうんじゃ、ないんだ……ねぇアルル、昼と夜の境目ってどこだろね」
いきなり何を言うのか。ヨゾラの思考を探るように、その視線を追った。橙から紫、そして藍へと移り変わる空。
「……どこだろうな。
「どういうこと?」
「夏の間にでる星でさ、三角の杯みたいに見えるのがあるんだよ。その星がでたら、真夏の夜の始まりだ、収穫祭だってことらしい」
「へぇえ! どの星?」
「まだ時期じゃないから見えない」
「だめじゃんかぁ」
話している間にも、夜空があたりを覆っていく。
ヨゾラの姿が、夜に溶け込んでいく。
「やっぱりあたし、ここに来たことあるよ。ここで、同じ事考えた。暗いところを抜け出して、ひたすら歩いて、ここに来て、街にも行った。それで、つかまって、逃げて、あちこち歩いて、溺れて、さんざんだったけど、キミに会えた」
夜の中から声がする。
「もし。もしもだよ? あたしがいないところでアルルが死んじゃったら、あたしすごくヤだな。せめて、あたしがいる時がいい」
ヨゾラ。
「あたしがキミについてったのはカンだったけど、今のあたしはキミの力になりたくて、誰でもいいって事じゃないんだ。キミはあたしの──ナワバリなんだぜ」
じんわりと心臓のあたりから体が温かく満ちて、首の後ろから肌に粟立ちが広がる。
この小さな黒猫の形をした不思議な生き物が、
アルルは宙に
「まぶしっ」
光に目を閉じた黒猫が照らされる。
「いいかヨゾラ。フィジコの光は、光を出す向きを決められる。こういうふうに」
光を真下に向ける。地面がまるくぼんやり光って、アルルもヨゾラも照り返しを受ける
「それが……なんだってのさ?」
「これ、上から見ても眩しくないだろ?」
「まぁ、そうだけど」
光を消した。
「それで、前だけに向いた小さい光を、両目の前につけると、こうなる」
ヨゾラがくっきり照らされ──直後に笑い出した。
「あははははは! 目! 目ひかってる!」
「点滅」
「ひゃはははは! やめ、やめて落ちる! ぶははは、わぁ!」
柵から落ちたのを、光る目で追う。
「だめだめ、むり! けははは!」
「色を次々に変えるぜ!」
「やーはははは! アルルだめむり!」
道端の草の上で文字通り笑い転げるヨゾラが、赤だの青だの黄色だのに照らされているのを見て、アルルもおかしくなった。
笑いながら、地面でひくひくしている相棒を拾い上げて、光を消した。
「お前が思うよりも、いろんな事ができるんだぜ、俺は」
「へへははは。わ、わかったよ。くるしい……」
予想以上に受けた。
「だから俺は死なないし、お前も死なせない。俺たちはきっと上手くやるし、今回だってなんとかなる。だから元気を出せ、ナワバリの
ヨゾラが腕の中で、こくこく頷くのがわかった。アルルはその身体を持ち上げ、背中に鼻をつけて息を吸った。
嗅ぎなれた、春の土の匂いがした。
「帰るぞ、ちゃんと。ララカウァラまで、二人で」
「うん……帰ろ。いっしょに」
──ヨゾラを見ているのが、本人に気づかれた。
頷いて返される。
何に対しての頷きなのか。ただ、強い顔をしていた。身体の形は違えど、決意を持ったひとの顔だった。
積み上がった泥の山をよけて通ると、急に視界が開けた。煉瓦の倉庫が二つ三つ残るだけの更地の向こう、飛び交う海鳥と、船が見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます