第140歩: 出航

 老船長、カプテニ・クォレンマトンは使い古した革のような肌を、織り目のきつい二列ボタンの上着で鎧っていた。擦り切れた襟が喉をつつみ、しゃがれた声は辺りの雑音を押しのけて、居並ぶ水夫らへと届く。


 海竜捕獲に船が出るという話はウ・ルーの街中が知る所であり、見物に訪れた者は、早朝にも関わらず少なくなかった。

 泥と瓦礫をどけてどうにか体裁を整えただけのうちみなとへは、茶売り屋台までやってきていて、商魂逞しい呼び声が背後十パソ足らずから聞こえてくる。

 海のみならず、そういった人々の立てるざわめきを推して通る船長の声は、独特なに加えてどこか剣呑な響きを持っていた。

 

「──今紹介した四名が同乗する魔法使い殿だ」


 船長に名前を呼ばれ、わけもなく背筋が冷えたのはアルルだけではないらしく、シェマはいつの間にか筒袴をぎゅっと握りこんでいたし、ハマハッキですら縦長の顔に緊張感を滲ませていた。

 ロッキだけが多少落ち着いた様子でいるのは、昨日顔合わせを済ませているからだろう。

 船べりを背にし、同僚と並んで船長の訓示を聞きながら、アルルは南半島からの帰路を思い出した。


 怒鳴られるよりも、こっちの方がなんだかおっかないな。


 内港までは湾の波もほとんど届かない。

 それでも、足元は大きくゆっくりと揺れる。

 索具類に掴まる四人の魔法使いや、その魔法使いに掴まる使い魔たちとは対照的に、船長も水夫も平然と立っていた。


「本船はこれより湾へ出て、ハイオルト島沖合いを目指す」


 船長の訓辞は続く。

「海の荒れっぷりは身をもって知ったばかりだ。オレの経験上でも、先の航海は指折りにクソったれな航海だったが、一つ証明された事がある。それは何か? 諸君らが思いがけず一丁前の船乗りであったという事だ。さて一丁前の船乗り諸君、新たな試練が君たちをまっているぞ」

 声が熱を帯び始める。

「今まで往還船としてぐーるぐると湾を回ってきたが、今回は海の化け物をとっ捕まえる航海だ。オレ達は再び湾へ出る。あの時と同じ、荒れっぱなしの湾へだ。嵐が相手じゃぶん殴るわけにもいかねえが、今回に限っては俺たちにも仕返しの機会があるそうでな。見ろ! この見送りの数を!」


 船長が左へ大きく腕をふり、港を示した。

 水夫達がそろって港へ顔を向け、船べりに並ぶ魔法使いを多数の視線がかすめる。

 おひゃっ、とハニが主人の頭上で小さく声を上げるのが聞こえた。


「壮観じゃねえか。いまやウ・ルー市民全員がオレ達の仕事に注目していやがるぜ。先の航海でオレ達のケツを追い回しやがったあの赤目玉をふんじばって、舳先に括り付けるのがこの船の仕事だ。諸君らの中にビビってチビった者もあるだろう。だが、ここでどんなにチビろうが構わん。この仕事が終わって帰れば連中は尊敬の眼差しで諸君を見るだろう。の乗組員とな。さあ諸君! いみじくもオレ達が英雄サマになる時だ! 準備はいいか!?」

 おう! と水夫たちから低い唸りがあがった。


「いいか!? いいか!? いいか!?」


 おう、おう、おう! と調子づき、あわせて幾多の足が甲板を踏み鳴らす。どぅどぅと船体が響き、うねりがアルルの脚から背骨へ登る。

 見慣れない光景と身を揺らす振動に、アルルは昂ぶりを感じる。例えば、嵐が来る前のような不穏な昂ぶりを。

 右脚に尖った痛みを覚えて目をやると、しがみつくヨゾラの毛が逆立って、小さな身体が膨らんでいた。



「各員、持ち場につけぃ! 出航だ!」



 船乗りたちが慌ただしく散って、船長が船尾へ向かって歩き出す。

 大声で符丁が飛び交い始める。錨の巻き上げ機に水夫たちが取り付いて、歯車の片回りラチェット機構が規則正しい振動を船体に走らせる。

 四人の魔法使いは、意図せずして同時に大きく息を吐いた。

「まるでいくさに出るような気分ですよ」

 ロッキの感想に魔法使いたちは顔を見合わせ、苦笑いを浮かべると、岸壁へと向き直った。

 港に集まった人々の最前列中央に、マーラウス・ファーの姿があった。夫人は金策のため、西方の港ラコッコを尋ねており不在という。

 そして同じ列には、協会職員が見送りに来ていた。

 支部長、マヌー、アンニ、オルト、ハンナ、アリスコ、ロヒガルメちゃん、バトゥとその使い魔。

 見知った顔ぶれがまっすぐに船上を見上げている。

 ロッキが、彼らにうなずいて応えていた。

 アリスコは遠目にわかるほど悲痛な面持ちで、ハマハッキが彼女へ向け、人差し指をびしっと立てて「任せろ」と伝えていた。


 そんな中「お嬢さん! 魔法使いのお嬢さん!」と大きく呼ぶ声があがって、見れば、見知らぬ中年の男が、顔の前で何かを払い落とすように右手を振っている。

 何事かと思って傍らを見ると、先輩魔法使いの頬に、さっと朱が差すところだった。

「お嬢さん! 見てたぜ!」

 男はなおも右手を振って、それを見た他の者にも「ああアレか」と同調する者がちらほら増えていく。

 アルルには何の事だかわからない。

「気をつけてな! しっかりやんなよ! 膝だ! 膝だ!」

 男が膝を持ち上げて手のひらでぱしぱし叩いている。それを見て、立てこもりの事かなと見当がついた。

 膝蹴りで包丁男をのした、しっぽ髪の魔法使い。そんな噂になったらしい。

 事情を知らない人が見れば奇妙な言動だ。しかし、男の投げかける声には真剣な響きがあり、シェマがそれをしっかり受け取ったのがアルルにもわかった。

 なぜなら、彼女が叫んだからだ。


「行ってきます!」

 索具に掴まり、軽く身を乗り出して。

「行ってきます! 今度はっ! 負けません!」


 船がひときわ大きく揺れた。


 小さく悲鳴を上げ、シェマが体勢を崩して船べりの甲板囲いブルワークに乗り上げる。それを、アルルは慌てて捕まえる。

 港の群衆がどよめく。

 気づけば反対側からハマハッキが、右脚をケトが押さえていた。

「いち、にの」三名で軽々と娘の体を引き戻す。

「大丈夫ですかい?」

 かもめクービアックがロッキの腕の中から声をかけると、恥ずかしいのか顔を真っ赤にしたまま先輩が

「……ごめんなさい、かつでした」

 と小さく謝罪の言葉を口にした。



 アルルは考える。

 今度は、とシェマは言った。

 が何なのかと考えたら、立てこもりの事ではないだろう。ほかならぬシェマの手で包丁男を取り押さえているのだ。だから、やはり高波の日の事なんじゃないかとアルルは思う。

 今度は、負けません。

 思わず口をついたのだろう一言。

 あの日の事を「負けた」と思っているのか。


 アルルは無意識に左手を見た。そこに、先程の感触が残っている。それが呼び水になって、協会で抱きしめた時の事も思い出す。細い腕、薄い背中、華奢な腰。


 急に彼女が危うく思えてきた。

 


「アルル!」



 ヨゾラの声で我に返る。

「返事しろよな。みんな行っちゃうよ?」

 振りむくと他の魔法使いたちは共同船室へと降りようとしている。たしかに、出番が来るまでは下で待機という事になっていた。

「わるい、考え事してた。今行く」

 協会の見送りに大きく手を振り、ヨゾラを甲板から抱き上げる。

「なんだよ、優しいじゃん」

「お前はちっちゃいからな。蹴飛ばされちまう」

 揺れて歩きづらく、さらに慌ただしく水夫が行きかう船の上だ。

「やっぱり優しいじゃん」

 二度も言われると面映ゆい。思わず鼻をつまんでしごいた時、呼ぶ声が聞こえた。


「ビッコーーーーー!!」

「アぁぁあール! ビッコーーーー!!」


 ヨゾラと二人、顔を見合わせる。

「フラぁぁ!」

「フラビーー!」

 人ごみの後ろの方、鮮やかな黄色のケープを手にもって大きく振る赤毛の幼なじみ。急いで走ってきたのか、大きく息を弾ませて、時おり膝に手をついても、ケープを振るのをやめない、一つ年上の姉貴分。一人前の髪切り娘。


「ビッコ居たぁっ! 間に合ったぁっ! 気をつけなよ! わたし、悲しい手紙なんて書かないよ! 書きたくないよ! 待ってるからさぁ! ちゃんと帰っておいでよビッコ!」


 胸が詰まった。なにか叫び返そうとすると、感情の蓋を押さえきれなくなりそうだった。

「大丈夫だよアルルは!」

 先に声を上げたのは、腕の中のヨゾラだった。

「あたしが守るから!」

 黒猫の言葉に意表を突かれて、アルルの胸の詰まりが治まる。


「大丈夫だフラビー! 約束する! 俺たちはちゃんと戻ってくるから!」


 風向きが変わった。岸壁の船尾側で、風使いが働いているのが小さく見えた。

 水夫が船からを外し、岸壁へ投げる。それを、外港から駆け付けた港湾夫が巻き取る。


 所せましと並んだ三角帆が、帆柱天辺の四角帆が、それぞれ風を孕んで膨らみ、往還船七号が内港を滑り出た。

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