第141歩: 共同船室
「そろそろガザミ
「ロッキ・アーペリとクービアック、です。よろしくお願いします」
副航海士が呼びに来て、ロッキはクービアックを腕に抱えて出ていった。
出航から半刻も経っていない。
室内に立ち並ぶ六本の柱と壁との間に、それぞれ
「外に出たら、波が高くなるって言ってたよなぁ」
ハマハッキがぼやいた。船室左端の床に座り込み、壁にもたれて吊り床用の鉄鉤に所在なく手をかけている。
その使い魔は低い天井から糸でぶら下がり、船室の中央にゆらゆらと浮いて見えた。
「クぅビアックの怪我はぁ、だいじょおぶでしょか……?」
八脚で糸を巻いたり解いたりして、心細げな声を出す。
「羽根をヒネったんだっけな? 治ればまた飛べるって言ってたんだしよ、心配ないぜハニちゃん」
「そぉなんですけどぉ、ハニにもちょこっと責任があるっていうかぁ……」
銀毛の蜘蛛が、口の前で二本の
「気にすんなってよ。波を割らなきゃハニちゃんが危なかったんだろ?」
ハニが黙り、そのまま船の揺れに合わせて宙を揺れる。そのハニを、隣の吊り床の上、ヨゾラが顔で追う。
「それ、たのしい?」
「……どぉかなぁ……ふつう?」
肩掛け鞄の中身を確認しながら、アルルはそんなやりとりに時々目をやっていた。
赤身の薫製が入った小さな革袋が三つ、鞘に入った小振りのナイフ、ビスケット、応急処置用の包帯と練り薬、気付け薬、糸、針。海竜をおびき寄せるための香木。
もう一つの、自前の鞄に昼食用のパン、水と塩の袋。
目的地であるハイオルト島へは、普段ならおおよそ二刻の航海と聞かされていた。適度に街から離れ、船が逃げ込める入り江のある無人の島だ。
海が普段と違うので、時間も多少かかるだろうという説明も受けている。
「海竜さん、かいりゅうさんよぉ」
ハマハッキが口の中で唄をつぶやく。ハイオルト島沖についたら、香木を焚き、唄で海竜に呼び掛けておびき出す手順と教わった。
以前にこの唄をうたっていた魔法使いは、
「唄で呼び掛けるなんて、ずいぶん古いやり方だよな。他のものみたいに直接語りかけられればいいのに」
ふとアルルが呟くと、奥から答えが飛んできた。
「ここまで力の大きなものに繋がって、無理やり抑え込むなんて
吊り床に腰掛け、検討するのもお話にならない、とでも言いたげにさばさばとシェマが言った。
一般論として、「不思議なものたち」が及ぼす影響が大きいほど、代償も大きい。
知識としてはアルルも知っているが、
「その辺りの感覚は、俺にはわからないからな」
ちくりと返して、しまった、と思った。
案の定、呆れられる。
「きみね……」
シェマはなにか言いかけて、珍しくそれを引っ込めた。
学院時代の良くないやり取り、それを蒸し返さずに済んだから、引っ込めてもらえたのは正直ありがたかった。
引っ込めた言葉の代わりに、先輩魔法使いが解説を始める。
「とにかく、つい二百年ぐらい前まで湾は荒れ海で、波に耐える船を出しても海竜にやられて、ってさんざんな海だったそうよ。以前には海竜と繋がって海を鎮めようとした魔法使いが何人もいたらしいのけど、みんな命を落としたって読んだわ。記述から解釈した限りだと、痙攣や昏睡、体温の異常な上昇、異常発汗に衰弱──典型的な『
「はー、おっそろしい」
ハマハッキが飄々と合いの手を入れ、シェマがそちらへひとつ頷く。
「なんでそんななるの?」
質問を飛ばしたのはヨゾラだった。アルルにではなく、シェマにだ。
驚いたのか、シェマは眉を上げ、次いで真顔になり、すこし力を抜いて笑みを作った。
「ちょっと長くなるわよ?」
「──魔法を使うと失うもの三つ。体に取り込んだ魔力と、体力と、塩気ね。魔力は『不思議なものたち』に支払う代償。それから体力。走ったり跳んだりと同じで、魔力を使うと血の巡りが速くなって、体温も上がって、それなりに疲れるわ。最後の塩気だけれど、これはなぜ魔法に必要なのかまだ詳しくわかっていない。ただ逆に、塩切れの症状から、意識をはっきり保ったり、体の働きを調節するのに、塩が関係していそうだと仮説は立ってる。ここまでは大丈夫?」
ヨゾラがいつになく真剣に頷いた。
やはり様子がどこか違う。傍らの吊り床に収まる猫の背を見てアルルは思う。
「無理のない範囲で、慣れた魔法を使い続けるなら長持ちするし、危険も少ないわ。ものとの相性だとか、いろいろ細かい違いはあるけれどね」
アルルの視線には気づかず、ヨゾラがシェマの講義をまっすぐ聞いている。それが自らにとっても大事なことであるみたいに。
「でも無茶をしたり、集中を乱して失敗したりすると、ごっそり持って行かれるの。急激に塩が切れて、あっと言う間に痙攣を起こしたり、意識を失ったりする。『不思議なものたち』に渡す魔力が足りないと、その分は体力を奪われる。体の芯が冷えだして、体はそれに負けまいとして熱を出すのよ。でも、塩切れでいろんな働きがおかしくなっているから、ただでさえ消耗している所に極端な熱が出て、過剰に汗をかく。そして、ひどいときは命を落とすの。これが『
「わかった。ありがとう」
ヨゾラが短く礼を言う。
「ヨゾラさんも、気をつけて」
どこか諭すようにシェマが返す。
アルルは思いだす。
シェマが痙攣を起こした時は、塩だけが切れた。
ドゥトーがハガネムシを呼びだした時は、塩と体力が辛うじて残った。
「やっぱし、学院出た人は違うわなぁ」
「どうも」
ハマハッキの軽口には一言だけ返る。
「それで、海竜の話なのだけど」
そもそもそれだった。
「あれと特別に相性が良いだとか、普段から接していて特別に慣れてるだとか、その時に海竜が特別に疲れていて、特別に休みたい気分だったとか、いろいろ条件がそろえば死なずに済むかもしれないけど──試したくはないわね」
眉根をきゅっと寄せて、シェマが締めくくった。
他のものと同じように扱えたなら、というのはすでに考えたのだろう。
──あさはかな事を言っちまったな。
「
負けじと、と言うわけではないがアルルも調べた内容を口に出した。
「ええ。きっと
銅像の件は知らなかった。シェマが、指で数えるようにしながら続ける。
「──燻煙を魔力で変質させる実験が進んで、香木の種類と働きもわかって、海上交易もできるようになって、海竜を繋ぎとめる図形が見つかって、海竜船の原型ができて、湾を巡る海の流れができて、ウ・ルーの発展が始まった──確かに、生け捕りにしろって言いたくもなるわ」
七本の指を眺めて、先輩魔法使いは小さく溜め息をつく。
「さすがだよな、シェマ」
海竜にまつわる歴史だけではない。
シェマの蜂蜜色の瞳が光って、ちょっとした皮肉か軽口か、あるいは両方が来ると予想できた。けれど、その瞳がちらりとなにかを見て、先輩魔法使いがまた言葉を引っ込めた。
彼女が見た先には、ヨゾラしかいない。
いったい何なんだ、というアルルの疑念はしかし、唐突な床の傾きと、続く落下の感覚で遮られる。
「わっ」
「おひゃっ」
「ぐっ」
「おおっ」
船室に緊張が走る。
「来た来た来た、出た出た出た!」
鉄鉤を握り込むハマハッキの顔がいささか引きつっている。
船がいよいよ湾に出たのだ。
アルルは吊り床の柱に片腕を回したまま、ヨゾラに手を伸ばした。ヨゾラの爪が袖に立つ。シェマも柱に腕を回して身を支え、ハニはぶらんぶらん揺れる。
開け放して固定された扉口から、真っ黒いこんもり毛玉が転がり込んできて、四つ脚を踏ん張り床にどっしりと構えた。
「今度は、どこ、行ってたのよ?」
身を支えながらのあるじの問いかけに、
「あるじよ、子どもがおるのだ!」
それだけでも、異様な話だった。
「帆柱の上に、
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