第133歩: 不思議でしょう魔法って
自分がそんなに付き合いのいい方だとは思わない。
協会の面々とは毎日顔を合わせるけれど、特別に親しいかと問われれば考えてしまう。
それでも。
ハンナとは年が近くて、お昼を一緒にすることがあった。物品庫の文献を読んでいたら、アンニが週末の貸し出しを認めてくれた。マヌーが紹介してくれたお店は、一人で行っても安心して飲めた。オルトがハンナに思い切って行かないのは、見ていてやきもきする。
この街に来て二年。もうすぐ派遣期間も終わる今、思っていた以上にここが好きだと気付いた。
気付いたのは彼らが、少なからず傷つけられたから。
その事実が娘の心に暗い炎を灯す。
無茶しないで下さいと支部長には言われたけれど。
──ごめんなさい。もう無茶しています。
宿直室に独り
目を閉じ、魔力を取り込み、ケトとの繋がりに意識を集中させる。
応接室に入ってからものを探し、語りかけるのでは間に合わない。だから最も身近な魔法、
手順を頭の中で反芻し、怒りで自らを奮い立たせ、首に下げた黒いお守りを握って唱える。
私は大丈夫。私は大丈夫。私は大丈夫。
私は強い。私は強い。私は強い。
私なら──できる。
窓の外から音が回って、ふいに男の怒鳴り声が聞こえた。
同時にケトから「行け」の意志が飛んでくる。シェマは魔法を発動する。
「猫は、いつの間にかいなくなる」
息を止め、黒い水底のような空間に目を開けば、現れては瞬いて消える細かなガラス片のような風景の群れ。
誰にも見られていない間だけ、視線の束縛を逃れた場所のかけらがここに立ち現れる。
瞬くかけらの中に、
助けたい背中と、蹴飛ばしたい背中。
窓に小石でも投げたのか、別の手段を使ったか、とにかく誘い出しはうまく行ったようだった。
「猫は、どこにでも現れる」
選び取る。そこへ。そのかけらの中へ。
「猫は」
それらに先んじて、次の魔法を発動。
「よく伸びる!」
音が帰る前なら、声は誰にも届かない。
みゅん! と腕を伸ばし、跳ぶ。
男の髪を掴む。魔法を解く。伸びた腕が戻り、軽いシェマが引っ張られる。
私に喧嘩を売ったらどうなるか──
ボゥと風唸る。しっぽ髪が尾を引く。そのまま勢いを乗せて、男の後頭部に力いっぱい膝を
──思い知れっ!
叩き込んだ。
ハンナが驚いて後ろに尻餅をつく。彼女の髪が男の手からすり抜ける。
蹴られた男がよろめき、シェマは男の頭を両膝で挟む。
「
混乱した男が闇雲に両腕を振り回す。
「どっしり構える!」
魔法でかりそめの「重さ」を
ばぐん!
男は顔から床に突っこんで、包丁が転がり、木の床で鋭い音をたてる。まだ、手の届く場所にある。
「ハンナさん蹴って!」
シェマの剣幕に、ハンナが恐る恐る男の脇腹あたりを蹴る。
「違う、包丁! 包丁どっかに蹴って!」
今度は伝わった。ハンナの蹴った包丁は床を滑り、革張りのソファの下へ潜る。そのソファが、小机やらの調度品ともども部屋の扉を塞いでいた。
「支部長ーっ!」
「シェマさん、今行きます!」
扉の錠がまわる音がした。向こうから障害物ごと扉を開けるべく、体当たりが始まる。
男は床に顔をつけて情けない声を上げ、逃れようと暴れていた。その頭を膝で挟み髪をつかんだまま、大きく息をはずませて、シェマは冷たく宣告した。
「無駄よ」
「今の私、動かせないから」
額から汗が一筋伝うのに構わず、シェマは口を開いた。
「さっき、文句あるのかって訊いたわね? もちろんあるわ。刃物もって女の子人質に取らなきゃ物も言えないの? そのくせに女には文句を付けて、ご立派ね。その
ぶちっと男の髪を抜く。
「ねぇ? 不思議でしょう魔法って。こんな小娘ひとり跳ねのけられないのよ? いま髪をもらったから今度、本当の呪いというのを教えてあげる。楽しみにしていなさい」
男が甲高い悲鳴をあげた。激しく暴れて逃げようとするが、小柄な娘はびくとも動かなかった。
窓の外がどよめく。
ちらりと目をやると、窓枠に見慣れた黒い前脚がかかって相棒がよじ登ってきた。
使った魔法は「よく伸びる」か「高く跳ぶ」か。きっと伸びる方だろう。
「あんたの出番、なかったわね」
少し挑発してやったが、使い魔は取り合わずに言った。
「傷はどの程度か」
シェマは首を傾げる。 ケトの視線を辿ると、袖の
「……かすり傷よ」
「肝を冷やした」
ハンナがソファを引きずり、扉が開いて警邏がなだれ込んでくる。助けてくれだの歯が折れただの鼻血が出ただのと嘆く男を彼らに引き渡し、シェマは立ち上がろうとして──よろめいた。
いまさら脚が震えている。男を蹴った膝がじんじんする。
それでも立ち上がると、ちょうど窓の前だった。下の野次馬から
「見たぜお嬢さん!」
「スカッとしたわぁ!」
「いい蹴り、してますねぇ!」
シェマもさすがにどう答えていいのかわからない。
「手でも振ってはどうかな?」
足元からの提案で控えめに手を振ろうとして、男の髪が絡まっているのに気がついた。
気持ち悪い。
髪を払い捨てたのが何かの仕草にでも見えたのか、野次馬がどっと盛り上がった。真似をする者もいて、二十二歳の娘は顔が熱くなってくる。
「……なにこれ、恥ずかしい」
窓に背中を向けると、ぐずぐずの顔になったハンナがいて、彼女はおろおろとシェマの左手を取った。
「だ、大丈夫ですか? シェマさん、大丈夫ですか?」
胸が詰まる。
「それは……私が言わなきゃ、いけないのに」
どうにか笑顔を作ってみせる。
ハンナの気丈さに打たれた。彼女の無事に安堵した。緊張の糸が切れて、急に泣けてきた。
ハンナも泣き笑いを見せ、何か言いかけて目をそらす。
「こんな時に、その、なんなんですけど……」
窓から警邏の笛と、立てこもり男へ野次馬の浴びせる罵声が聞こえている。廊下をどたどたと誰かが走ってくる。
ハンナがきまずそうに、小声で続けた。
「お手洗いに、行きたくて」
真っ先に駆けつけたオルトを半ば押しのけ、ハンナが階下へ急ぐ。思いがけない展開で呆然とする受付係のもう片方へ近寄り、シェマは一言かけた。
「理由、訊いたら駄目ですよ?」
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