第85歩: ただいま
リクハルド。
ヨゾラも聞いたことのある名前。アルルん
「……いや、お
淑女の後ろ姿がすこし小さくなったように見えた。
ペブルが答える声ははっきりしていた。
「ああ、
淑女の背がすくっと伸びた。
「スティオ! そうだ、スティオだ! 森を出て、スティオの家に来いなどと阿呆な事を言いよった
「お主は、そうだ、吾が同胞に精をくれた事があるな。極夜の森だったか、絵をもらったのを覚えておるわ」
「えれえ昔の話だなぁ。あん時ぁ助かったぜ」
そう言いながら、ペブルが背中の鞄をおろした。
ヨゾラの背中に手が触れた。アルルだ。眉尻を下げ、ばつの悪そうな顔をしたぺたんこ鼻の青年に
「ごめん、でも助かった」
と言われて、ヨゾラは口をムグムグさせた。
ニヤけそうになったけれど、もう少し怒ったフリは続けようと口を尖らせ
「いいよ」
とだけ言った。アルルの手が背中を、とん、として引っ込む。
「親父、一人で来たんだな」
「村で噂になりたいのですか? 坊ちゃん」
のそのそと蛙が戻る。
「
「よろしかろっ」
力強く
この森の人は本当に交尾がしたいんだな、とヨゾラは思う。
「ところで」
しかしペブルにはまだ言うことがあるらしい。
「オレのご先祖がお
向こうに「端っこの家」が見えた。ヨゾラのはるか頭上から大きなため息と、どんよりした声が聞こえた。
「なんだか、何の役にも立てなかったなぁ」
猫はひとつ思い出す。
「やくたたずだっけ?」
だいぶ怖い顔でにらまれた。
「ちがうよ? アルルがそうだって言いたいんじゃなくて、その、言葉、思い出したから……ごめん」
アルルは何も言わず、ただ早足になる。
怒らせちゃった、とヨゾラは思った。
「ごめんってば。でも、エルクを見つけたのはキミだろ? 役に立ったんじゃないの?」
時々走っては、むっつり押し黙る青年に必死について行く。
「ねえアルル、わざとじゃなかったんだよ。ごーめーんー」
それでも全然返事をしてくれない。
アルルの機嫌が直ったのは、フーヴィアの家に寄った後だった。
母娘が同時に声をあげたのだ。
「なに言ってんだいアルビッコちゃん!」
「なに言ってるのアル
ふっくらした頬をさらに膨らませ、フーヴィアはさらに言い募った。
「何もできなかったって何? 夜中にエルクを探しに行ってくれたの、アル兄だけだったよ? 魔法で見つけてくれたのだって、アル兄でしょ? わたし、アル兄が飛んでいくのみた。エルクからも聞いたよ、アル兄がかわってくれて出られたって。わたし」
揺り籠の赤ん坊は母親の指を握って遊んでいる。
「グッカに……お父さんがいなくなっちゃったらどうしようって思ってた」
その眉が怒ったようにぎゅっと寄る。
「……ごめん、フー」
そしてアルルは一つ大きく息を吸って、
「そうだよな」
と長く長く吐き出し、いくらかすっきりした調子で続けた。
「エルクのやつがちゃんと帰って来れてよかった」
そのエルクは、一晩寝てないのに地主さんの畑へ出たという。ねむくても、お金がいるんだそうだ。
フーヴィアとエルクの家から出るときに、エカおばさんが訊いてきた。
「その、モッサなんたらはまだいるのかい?」
「うん。親父が戻ったらまた皆に知らせないといけない。森で白い服の女を見てもついて行くなってさ」
「教えた途端に男どもはこぞって行きそうだけどねぇ」
エカおばさんの目がぐるんとまわった。エルクが畑から帰ってくるまでは、フーヴィアの家にいるのだという。
「ファビオラがうちに居てくれてるからねぇ。アタシはそれまで孫とたっぷり遊ばせてもらうよ」
途中まで深緑色に塗られた家の前、両手をそすそすとこすりながらおばさんがそう言った。
そのあとはもう、アルルは早足じゃなかった。
遠くに牛の鳴き声を聞きながら、ムギワタの飛ぶ畑を通り過ぎる。
「アルル」
「いいよ。わざとじゃないのはわかってる。『やくたたず』は……ちょっときつかったけど」
だからそれは
「キミの事じゃないってば」
「わかってるって。あれは、虫のいどころが悪くて」
林の道が近づいてくる。
「ムシ?」
「ええと、つまり機嫌がよくなくて、俺が、お前に──」
アルルが額に手をあてて指をパタパタとする。
「悪かったよ。八つ当たりなんかして」
「うん。その、やつあたりって何?」
ああああ、とアルルは弱った声を上げ、やつあたりの意味を教えてくれた。最後に
「自分のやった失敗を説明するの、きびしいな」
とぼやいた。
林の三叉路を過ぎ、家の戸口が見えてもそこに蛙はいない。ペブルと一緒なのだから当然だ。ただ、なんだか物足りない気持ちはする。
戸口の前まで来て思い出した。
「ペブルさん鍵かけてたよ?」
そう言うと、魔法使いは得意げに「にっ」と笑って右手の人差し指を立てた。
「
何が言いたいのか、と黒猫は続きを待つ。
「鍵の形、覚えてるんだよ」
立てた指の先に
がこっ、と掛け金がはずれる音。
扉をあけ、目の前の階段に足をかけたところでアルルが止まって振り向いた。
「どうしたの?」
ヨゾラはちょうど家に入ったばかり。
短くなった黒髪をかりかりと掻き、ぺたんこ鼻を指でしごいてからアルルが口を開いた。
「いまなら細かい事いう蛙もいないし」
「ん?」
「ヨゾラ、おかえり」
──おかえり、今日は何をみてきた?
──おかえり、泥だらけだな今日は。
──おかえり、鉄塔には登れたのかな?
──おかえり、今日は海の話をしようか。
──おかえり、どうしたんだいその顔は?
ふわりと胸があたたかく感じた。つるつるの床。ここよりもずっとずっと暑くて眩しい白い部屋。アルルと同じ色のヒト。
「へへへへ」
声が漏れた。
「へへっ……。えへへへへ。にへへへへ」
アルルが階段から、怪訝な顔で見下ろしてくる。
「どうした? 変な笑い声出てるぞ、大丈夫か?」
「へへへっ」
最後の息を吐き、吸いなおす。
「ただーいまー!」
高らかに宣言した。気分がよかった。アルルの足元をすり抜けて階段の一番上まで駆け上がり、そこから茶色い顔を見下ろして言ってやった。
「おかーえりー!」
やれやれ、といいたげにアルルは笑い
「ただいま」
と返してくれた。
「といっても、本みつけたらまたすぐ出るけどな」
それからペブルが帰るまで三日かかって、いつの間にか
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