第85歩: ただいま

 リクハルド。

 ヨゾラも聞いたことのある名前。アルルんにいる幽霊の名前。

「……いや、おんしは違うな。顔も匂いも似とるが、違うな」

 淑女の後ろ姿がすこし小さくなったように見えた。

 ペブルが答える声ははっきりしていた。

「ああ、ちげぇな。だがご先祖にその名前の男がいたぜ。おさんが言ってんのぁ、リクハルド・スティオか?」

 淑女の背がと伸びた。

「スティオ! そうだ、スティオだ! 森を出て、スティオの家に来いなどと阿呆な事を言いよったおのこだ。精はくれんかったが、本を読んでくれた男だ。ヒトが森ではない所を巡る話だった。一つ読み終わると、また別のを持ってきてくれた。耳飾りももろうた。だが、また来ると言うたきり来んようになった。ずっと待っとったのに、とんだ嘘つきのリクハルド・スティオだ」

 淑女モッサは一気に言い切って、さらりと黒髪を振る。

「お主は、そうだ、吾が同胞に精をくれた事があるな。極夜の森だったか、絵をもらったのを覚えておるわ」

「えれえ昔の話だなぁ。あん時ぁ助かったぜ」

 そう言いながら、ペブルが背中の鞄をおろした。


 ヨゾラの背中に手が触れた。アルルだ。眉尻を下げ、ばつの悪そうな顔をしたぺたんこ鼻の青年に

「ごめん、でも助かった」

 と言われて、ヨゾラは口をムグムグさせた。

 ニヤけそうになったけれど、もう少し怒ったフリは続けようと口を尖らせ

「いいよ」

 とだけ言った。アルルの手が背中を、とん、として引っ込む。

「親父、一人で来たんだな」

「村で噂になりたいのですか? 坊ちゃん」

 のそのそと蛙が戻る。ぬしさまのところへ。


淑女モッサよ。いきなりで悪いんだが、そこに座り込んでる坊主はオレの息子でな。オレがかわる。かえしてもらうぞ」

「よろしかろっ」

 力強く淑女モッサが合意した。

 この森の人は本当に交尾がしたいんだな、とヨゾラは思う。

「ところで」

 しかしペブルにはまだ言うことがあるらしい。

「オレのご先祖がおさんに持ってくるはずだった本、あれが家にまだあると思うんだが、読んでみたくはねぇか?」




 向こうに「端っこの家」が見えた。ヨゾラのはるか頭上から大きなため息と、どんよりした声が聞こえた。

「なんだか、何の役にも立てなかったなぁ」

 猫はひとつ思い出す。

だっけ?」

 だいぶ怖い顔でにらまれた。

「ちがうよ? アルルがそうだって言いたいんじゃなくて、その、言葉、思い出したから……ごめん」

 アルルは何も言わず、ただ早足になる。

 怒らせちゃった、とヨゾラは思った。

「ごめんってば。でも、エルクを見つけたのはキミだろ? 役に立ったんじゃないの?」

 時々走っては、むっつり押し黙る青年に必死について行く。

「ねえアルル、わざとじゃなかったんだよ。ごーめーんー」

 それでも全然返事をしてくれない。

 アルルの機嫌が直ったのは、フーヴィアの家に寄った後だった。



 母娘が同時に声をあげたのだ。

「なに言ってんだいアルビッコちゃん!」

「なに言ってるのアルにい!」

 ふっくらした頬をさらに膨らませ、フーヴィアはさらに言い募った。

「何もできなかったって何? 夜中にエルクを探しに行ってくれたの、アル兄だけだったよ? 魔法で見つけてくれたのだって、アル兄でしょ? わたし、アル兄が飛んでいくのみた。エルクからも聞いたよ、アル兄がかわってくれて出られたって。わたし」

 揺り籠の赤ん坊は母親の指を握って遊んでいる。

「グッカに……お父さんがいなくなっちゃったらどうしようって思ってた」

 その眉が怒ったようにぎゅっと寄る。

「……ごめん、フー」

 そしてアルルは一つ大きく息を吸って、

「そうだよな」

 と長く長く吐き出し、いくらかすっきりした調子で続けた。

「エルクのやつがちゃんと帰って来れてよかった」

 そのエルクは、一晩寝てないのに地主さんの畑へ出たという。ねむくても、お金がいるんだそうだ。

 

 フーヴィアとエルクの家から出るときに、エカおばさんが訊いてきた。

「その、モッサはまだいるのかい?」

「うん。親父が戻ったらまた皆に知らせないといけない。森で白い服の女を見てもついて行くなってさ」

「教えた途端に男どもはこぞって行きそうだけどねぇ」

 エカおばさんの目がぐるんとまわった。エルクが畑から帰ってくるまでは、フーヴィアの家にいるのだという。

「ファビオラがうちに居てくれてるからねぇ。アタシはそれまで孫とたっぷり遊ばせてもらうよ」

 途中まで深緑色に塗られた家の前、両手をとこすりながらおばさんがそう言った。



 そのあとはもう、アルルは早足じゃなかった。

 遠くに牛の鳴き声を聞きながら、ムギワタの飛ぶ畑を通り過ぎる。

「アルル」

「いいよ。わざとじゃないのはわかってる。『やくたたず』は……ちょっときつかったけど」

 だからそれは

「キミの事じゃないってば」

「わかってるって。あれは、虫のいどころが悪くて」

 林の道が近づいてくる。

「ムシ?」

「ええと、つまり機嫌がよくなくて、俺が、お前に──」

 アルルが額に手をあてて指をパタパタとする。

「悪かったよ。八つ当たりなんかして」

「うん。その、って何?」

 ああああ、とアルルは弱った声を上げ、やつあたりの意味を教えてくれた。最後に

「自分のやった失敗を説明するの、きびしいな」

 とぼやいた。


 林の三叉路を過ぎ、家の戸口が見えてもそこに蛙はいない。ペブルと一緒なのだから当然だ。ただ、なんだか物足りない気持ちはする。

 戸口の前まで来て思い出した。

「ペブルさん鍵かけてたよ?」

 そう言うと、魔法使いは得意げに「にっ」と笑って右手の人差し指を立てた。

うちのはそう複雑でもないからさ」

 何が言いたいのか、と黒猫は続きを待つ。

「鍵の形、覚えてるんだよ」

 立てた指の先に魔法フィジコが発動していた。


 がこっ、と掛け金がはずれる音。

 扉をあけ、目の前の階段に足をかけたところでアルルが止まって振り向いた。

「どうしたの?」

 ヨゾラはちょうど家に入ったばかり。

 短くなった黒髪をかりかりと掻き、ぺたんこ鼻を指でしごいてからアルルが口を開いた。

「いまなら細かい事いう蛙もいないし」

「ん?」

「ヨゾラ、おかえり」

 

 ──おかえり、今日は何をみてきた?

 ──おかえり、泥だらけだな今日は。

 ──おかえり、鉄塔には登れたのかな?

 ──おかえり、今日は海の話をしようか。

 ──おかえり、どうしたんだいその顔は?


 ふわりと胸があたたかく感じた。つるつるの床。ここよりもずっとずっと暑くて眩しい白い部屋。アルルと同じ色のヒト。

「へへへへ」

 声が漏れた。

「へへっ……。えへへへへ。にへへへへ」

 アルルが階段から、怪訝な顔で見下ろしてくる。

「どうした? 変な笑い声出てるぞ、大丈夫か?」

「へへへっ」

 最後の息を吐き、吸いなおす。

「ただーいまー!」

 高らかに宣言した。気分がよかった。アルルの足元をすり抜けて階段の一番上まで駆け上がり、そこから茶色い顔を見下ろして言ってやった。

「おかーえりー!」

 やれやれ、といいたげにアルルは笑い

「ただいま」

 と返してくれた。


「といっても、本みつけたらまたすぐ出るけどな」


 それからペブルが帰るまで三日かかって、いつの間にか三月マーソも終わっていた。

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