第84歩: 今までで一番情けない

ドゥトーの薬はよく効きやがるな。ちっとも痛くねえ畜生め」

「痛いほうがいいの?」

 ペブルが返事に詰まったころ、アルルは淑女の森で大の字に転がっていた。




「なにゆえに! なにゆえに精をくれんのだ!」

 柔らかな苔に座り込んで、さめざめと森の淑女モッサナフロレッタが泣いている。

 こうなる予感はしていた。しかし、もしかしたらという期待も少しはあったのだ。

 エルクとヨゾラを帰した後、淑女は少女のように瞳を輝かせ、慈母のような微笑みを浮かべ、生娘のように恥じらい、娼婦のようにあけすけに迫った。

 そのどれにも、アルルの身体は応えられなかった。

 口の塩気もとっくのとうに無い。人をとりこにするという口づけすら効かなかった。

 無力感と罪悪感とでいたたまれなかった。


「悪い。あんたが悪いんでも、俺が意地悪してるんでもないんだ」

 たぶん今までで一番情けない姿をしていると思う。

「おんしはぁ、だめなのかぁ」

 淑女モッサがしゃくりあげながら拳で涙を拭う姿も、ある種の庇護欲をさそう。

「あんたは、安心してくれていいよ。カケスで人を呼んだから、じきに誰かしら来るはずだ」


 我ながらなんとも冴えないやり方だと思う。

 

 物陰でエルクと話した事は、それほど多くない。

「フーヴィアにもグーにも顔向けできなくなるのが嫌だ」

 そう言われてそれまでだった。「誰にも言わないから」などと言った自分に心底嫌気がさした。

 時間がかかったのは、単に悩んだからに過ぎない。

 暴力的な手段に出るか、恥を忍んで助けを呼ぶか。

 それで、後者を取ったのだ。誰か男をつれてきてくれと。


 重たい心持ちでアルルは起き上がった。

 悔しいのか悲しいのか、淑女が真っ赤な顔をして歯噛みしている。なんとも人間くさいだなと思った。

 人の精を得て子を成すというから、それも不思議ではないのかもしれない。

 まるでが貰えなかった子どもみたいに、ぐしゃぐしゃと髪をかき上げ、ぶるぶると震えている。小ぶりの耳に揺れる飾りがはっきり見えた。

 ふちの波打った葉が形取られた、艶めく乳白色の細工物。素材には馴染みがあった。

「耳につけてるそれ、あんたが作ったのか?」

「おんしには関係なかろ!」

 甲高い淑女の声。

 騙すような真似をしたのはアルルも自覚しているし、それに引け目も感じているが、機嫌を取ろうとまでは思わない。

 背中に手を回して土なり苔なりを払うと、脇に散らばる布類を無造作に掴む。

 迎えが来るまでにやることも、特に無いのだ。

 森の淑女モッサナフロレッタが離れてしまい、体も冷えてきたので──とりあえず、服を着る事にした。


 

 もぞもぞと森の淑女がをかぶり、深く息を吸って、長々と吐いた。

「……ヒマだ魔法使い。なにか話でもせい」

 急に何を言うんだと思う。

「何でも良いわ。ヒトの時間に合わせとると、ヒマで仕方ない。は精をもらうまでを閉じんし、おんしも代わりが来るまで帰さんのだから、お互いヒマであろ?」

 そりゃあ、ヒマではあるけれど

「帰してくれと頼んだら、帰してくれるのか?」

「断る」

「じぁあ、なんで森の淑女モッサナフロレッタが服を着るのか」

「話をしろと言うたのに」

 眉根を寄せて淑女モッサが言う。

「ヒマはつぶれるだろ。男の精が欲しくて出てくるのに、なんでわざわざ服を着るんだ? 寒いにしちゃ薄着だよな」

 三月終わりの昼間といっても、まだまだコートは手放せない。

「これは、お主らのいう知恵というやつだ。薄いのを一枚着た方がが良い」

 魚と同列だった。

 さっきまで泣いていたくせに、妙に尊大な口振りで淑女が言葉を継ぐ。

同胞はらから幾千日の経験ぞ、間違いないわ」

同胞はらから? あんた自身のじゃなくてか? 他の、あんたじゃない淑女モッサがここに来たりするのか?」

「来やせん。が、分かち合う。一本の木、一株の苔を森とは呼ばぬだろう。吾は森のものだ。分かち合ってこそ森だ。吾が知ったことは全て同胞の知るところぞ」

 どうやって、と訊くより早く淑女が続けた。

「おんしと似たような事を尋ねたおのこはたくさん居ったよ魔法使い。お主らは分かち合えんのかな」

 片眉を器用に持ち上げてのもの言いに、アルルは少しだけ馬鹿にされた気がした。

「あんたらみたいには行かないけど、それなりに分かち合ってるよ。こっちには文字と本ってのがあるんだ」

「ほん」

「そうだ。見聞きしたことを本に書いて残すんだ。千年残ったものだってある」

 書く、印す、伝える。先達の魔法使いが積み重ねてきたものだ。淑女が、くん、と両眉をあげた。

「いや、ほん、とな?」

「本当だ」

「そうではない、別に疑っとらん。本なら知っておる。お主と同じ、精をくれん男が持っとった」

 アルルは内心歯噛みした。やりたくないわけじゃない。精を。

「あやつめ、塩っ辛い胡桃クルミを舐めながら純潔がどうとか、阿呆な事ばかり言いおって。その時も悔しゅうて腹に据えかねとったら、その男が本とやらを読んでくれた。吾がもっと北の森に居った頃でな、見よ、この耳飾りもその男がくれたのだ」

 淑女が指で髪をどけて、アルルは三度みたび耳を見る。

 女の耳はふっくらして小ぶりがいい、と事あるごとに言ってたのは誰だったか。たしか、テーテンホクの爺さんだ。爺さんの好きそうな耳だ。爺さん俺と替われ。

 爺さん好みの耳にぶら下がる、表面に波の紋様をあしらった白い葉の意匠。耳たぶを貫いて通された吊り輪も、葉と同じ素材だった。

 鹿角を磨いた細工物。

「そやつめ、話の続きを持ってくると言うから帰したのに、結局戻ってきやぁせん」

 そんな手があったか、とアルルが思うのも束の間。

「だから魔法使い、今度は帰さんぞ。吾は諦めん。時間はたっぷりあるのだ。たとえ代わりが来ずとも、力のつくものをたんまり食わせていずれは、吾の子種をいただく」

 淑女が新緑の瞳に決意をみなぎらせて言った。

 

 それは喜んでいいのだろうか?

 アルルは正直なところ、どんな顔をすればいいかわからなかった。

 早くきてくれヨゾラ、と思う。

 あの黒猫が、いまどの辺りにいそうかを自問する。



 ヨゾラに出会ってから起こった「おかしなこと」の一つ。



 あの黒猫の居場所がカンでわかるようになった。

 近いか遠いか、どっちにいるのか。最初は、本当にカンが当たっているだけだと思っていた。だが、カンが外れた事はない。



 そのカンが告げた。

 左前方、木漏れ日が糸のように垂れ下がる森の奥へとアルルは顔を向ける。

「よくヒトのやってくる日だ」

 淑女モッサも半ば振り返るようにそちらを伺う。

 ややあって、木立の影から背の高い人影が覗いた。ゆっくりした、不均衡な足取り。


 ざっ!

 

 茂みから黒い影が飛び出した。その背に緑の点が一つ。


「アルルっ!」

「坊ちゃん!」

「おりろ蛙!」

 黒い影は鋭く跳躍し、アルルの顔面へ


「ぶっ!」


 体当たりした。


「一人で勝手に決めんなっ! あたしはアルルを置いてくなんて言ってないぞっ!」

 緑の瞳が、小さいなりに爛々らんらんとしていた。エレスク・ルーで噛まれた時と同じ目だ。

「猫! 坊ちゃんに何という事を!」

 いつの間にヨゾラから飛び降りたのか、苔むす地面からホップが声を荒げる。

「うるさい蛙! 喰うぞ!」

「やってごらんなさい!」

 蛙がその身をぐぐっと膨らませた所で、父の怒鳴り声がした。

「後にしろおぇら!!」

 条件反射で、思わずアルルは身をすくめた。

 しかし、姿をみせた白髪の魔法使いに安堵のため息が出る。

「……おさんら淑女モッサは、もうちっと北の方にいるんだと思ってたがなぁ」

 

 そんな感想をもらすペブルに、森の淑女はふわふわと立ち上がって


「リクハルド?」


 と呟いた。

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