第65歩: よんせんごひゃく(嘘)
六番
半島往還船の船長は若い頃、外洋船の乗組員として鳴らした男だった。東部諸国への新航路を開き、シュダマヒカ本島へ辿り着いた航海士でもあった。
太陽や月、星の運行で位置を知り、時を読んで何度も命を繋いできた男である。
初めて海に出たのは十五の時。十七の時に
多くの仲間が海に呑まれて死んだ以上、自分が
往還船の船長になったのは、七十を過ぎてからだ。ライリ・マーラウス
安定した航路の、悪く言えばいささかつまらない船の船長になったのは、この船に若手の練習船としての側面があったからだ。
若者は未来、という社長の言葉を初めは鼻で笑った。三十歳も年下のひよっこがナニをぬかしゃあがると思ったが、社長は真摯で、かつ、しつこかった。実に、しつこかった。
根負けし、結局、死に場所として見ていた海に別の意味を見ている。
常にどこか死を期待し、しかし全力で死から逃げた人生に、思いがけず訪れた穏やかな晩年である。
皮肉に思いはしても、それを恥じない程度には図太かった。
それはそうと、七十を超えればさすがに物忘れも増えてくる。
まず、懐中時計のゼンマイを巻き忘れた。
気が付いて巻き直したのだが、当然ながら針も合わせなければならない。空はあいにくと曇っていて、太陽の位置は伺いしれなかった。
船長は往年のカンで時刻を合わせた。
往年のカンには自信を持っていたし、時計が多少ずれていても、港に入ればどうにかなるだろうと思っていた。
そして往年のカンの力は凄まじく、進めすぎた時刻どおりに、つまり予定より早く入港してしまったのである。
六番突堤は実質的に往還船専用の突堤となっていた。航路が安定しており、多いときは日に六隻が湾を巡る往還船だ。ならば不定期の船を入れない方が効率が良い。
そして予定より早い入港に対応するぐらいには、サンドホルム港の人員も鍛えられていた。
なにより
「時計ってのぁ、いまいちピンとこねぇなぁ」
物事が順調に進んでいれば時刻の正確さはさして重要でないと、船長は信じていたのだ。
かくして進めすぎた時計を直すこともなく、船長は錨を上げろと怒鳴ったのである。
全力疾走だ。
出航の鐘が聞こえた時、ヨゾラはまだ三千を数えていなかった。鐘の音に顔を上げ、風を孕む帆を向こうに見てアルルは慌てた。
四番突堤を駆け戻り、左に折れ、往還船を降りた旅行者や荷車を避けつつ走る。走るアルルを、ヨゾラはちょいちょい追い抜いては振り向く。
まだ数えていた。
六番突堤の根元に辿り着いた時には、船尾が突堤を離れようかという所だった。そこには若い男が一人、両手を挙げて立っている。
風送りの雇われ魔法使い。
それを横目に、アルルは背中の荷物を降ろした。
「ヨゾラ」
「さんぜんご?」
もう数える必要はどこにも無いというのに。
振り向いた黒猫の背に右手を当てて「糸」をつないだ。続いて荷物にも。
立ち上がって一呼吸、
「さんぜんななっ!?」
そして狙いを定め、船へと勢いよく飛ばした。
「さんぜんきゅううぅぅぅ──!」
ここまでくるとむしろ立派に思えた。仄かに碧く「糸」の尾を引いて吹っ飛んでいく。
目測で、ヨゾラと荷物を船尾甲板に放り込んだ。六番突堤の端で見送りらしき人々が船に大きく手を振っていた。
アルルは魔力を吸い直し、軽くなった体で再度走る。
意識を集中する。体に入った魔力に、形とかたさをつける。そうやって背に立てた「翼」にかかる風の力を、自分の体につなぐ。
妙に必死な見送りの手前で床を蹴り、
ぼっ、という低い衝撃音と突風に人垣が振り向き、驚きの声を上げる。
海面が見えた。脚に「尾羽」を開き、さらに数度羽ばたいて加速。
歯を食いしばって上昇をかけた。
甲板の高さまで体を持ち上げると、老船長と水夫たちが唖然として鞄と猫を囲む姿が見えた。
飛べば馬よりも速い。みるみるうちに船に追いつく。しかし取り込んだ魔力ももう尽きそうだった。
水夫たちがこちらに気付いて騒ぎ始めたのを、船長が叱りとばしている。
アルルは数度羽ばたいて船と速さを合わせた。「翼」の起こした風で船長の帽子が飛びそうになる。
帆と船体に張り巡らされた幾本もの綱の間に、通り抜けられそうな隙間をみる。
最後のひと羽ばたきで、その隙間に体を放り込んだ。
滑りながら着地、船の揺れ、転倒。
左手から離れた杖がころころ転がり、航海士の足にあたった。
こつん。
「おいお前!」
その航海士がにじりよる。
身を起こしたアルルは、屈強な男たちが殺気あふれる形相で自分を取り囲んでいるのを見た。
そうじゃない違うんだ、と言わんばかりに手を振りコートの内ポケットをまさぐる。走って飛んで、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返して、一団へ乗船券を示した。
券を覗きこみ、うなり声のような溜め息をもらす一団へ、恐る恐る一言。
「……乗ります」
ヨゾラが隣に来て、ぽそっと言った。
「よ……よんせんごひゃく」
「ほんとかよ」
思わず声にだしてから、アルルは改めて自分を取り囲む船乗りたちを苦い気分で見上げた。
このあと怒られた。
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