第47歩: 闇を追って
「あれが生きてるとして、君はどうするんだ? 人の足で逃げ切れるとは思えんぞ」
馬にまたがり、
ばらばらばら、と小山の土が窪地へ流れ落ちる。
杖をひろい、アルルが答える。
「ここから少し下ったところに、崖があったはずです。そこから飛びます」
「自殺行為だ!」
警邏長が厳しい顔で怒鳴った。
ずん、と低い音が聞こえた。窪地に流れ落ちた岩が鈍い音をたてた。
「あ、と。すみません。俺にもとっておきの魔法があって、少しなら飛べるんです」
「は?」
鳥人間の噂は警邏長の耳に届いていないようだった。
「いいから行ってください。逃げきって、あとで詰め所に顔だしますから」
話をする間にも小山の揺れは止まらない。その間隔が短くなってきている。
どう!
腹に響く音がした。倒木が転がり、若い木をなぎ倒す。
どふっ!
直後に火山のように土が噴いた。
土くれの雨が降る中、ヤミヌシの頭が地上に出る。前足を小山に踏ん張り、脆く崩れる土に足を取られてはまた踏ん張り、残りの身体を引っ張り出そうとしていた。
左の前足はもう動かせないようだった。
右目から流れた体液が乾いて、白く筋を作っていた。
残った左目はそこにいる人間たちを憎らしげに睨み、しかし、何かに引っ張られるように顔を巡らせて夕陽をみた。人間と夕陽の間でヤミヌシの眼光がさまよっている。
「なんだ……?」
警邏長が怪訝な声をだした。
「迷ってる?」
ヨゾラが肩の上で呟く。
不意に、ヤミヌシが動いた。誰もが思わず身構える。ヤミヌシは激しく身をよじり、小山の中から身体を抜き出す。前につんのめった身体が窪地へと落ちる。湿った、重苦しい音がした。
「今のうちに」
「わかった。ツェツェカフカさんは任せろ。君もちゃんと帰ってきなさい」
警邏長が馬の横腹を蹴った。
「アルル君、嬢ちゃん、急げよ」
ドゥトーが振り絞るように大きな声を出した。
警邏長が笛を吹く。
びっ、びぅ、びっ! びっ、びぅ、びっ!
繰り返しながら遠ざかる笛の音に、いくつもの笛が応えた。警邏たちは無事か。
窪地の中で、ヤミヌシは這い上がろうとはしなかった。身体に無数の傷があり、樹木の枝や幹が突き刺さって白い血を流していた。
不意に、その枝や幹が倒れる。
抜けたのではない。支えを失って倒れたのだ。
ヤミヌシの身体から厚みも輪郭も消えていた。上からだと、窪地の底に闇が溜まっているかのように見えた。
ヤミモリが影に潜るように、ヤミヌシが闇に潜った。
その闇が、しゅるしゅると窪地を登る。アルルは思わず後ずさった。
黒い池のような闇が地面を滑っていく。
森から見て、夕陽の差す方向。
「……町に出る気だ」
思わず声がもれた。
「アルル、追っかけよう。町には、ピファちゃんとウーウィーくんがいる。お肉の人たちも」
ヨゾラが声を上げた時には、アルルは駆け出していた。ヤミヌシが何をするつもりかはわからない。一人であれをどうにかする自信はない。
ただ、あれは人を喰った。せめて町から離さないと。
「糸」を杖に貼り付ける。魔力を取り込み、杖を飛ばす。池状の闇に糸を引いて杖が飛び込んだ。
闇を引き上げようと試みる。しかし、上がったのは杖と土の塊だけで、闇には波の一つも立たなかった。
走りながら、杖を手元に引き寄せる。闇に潜った相手に、力場は働いてくれないようだった。
闇との距離がみるみる開いていく。森の切れ間が見えて、そこから闇が滝のように流れ落ちていく。
崖だ。
アルルはポケットに手を突っ込んで、塩のかけらを一粒口に放り込んだ。
「ヨゾラ、飛ぶぞ」
ヨゾラは自分の身体が抱き上げられたのを感じた。
「入ってろ」
どこに? と思ったら、前を閉じたコートの中に突っ込まれた。コートの上から、アルルが腕で押さえてくれているのがわかった。襟口から頭と前足を出す。
怪我した脚に痛みはなかったが、あんまりよく動いてくれなかった。
アルルが足をとめた。ヒゲがぴりりとした。大きな呼吸と共に、アルルが魔力を取り込んでいる。
夕陽がまっすぐ見えて、瞳孔がぎゅっと縮まるのを感じた。遠くで河が夕陽にキラキラとしていた。河沿いに右に目をやれば火薬工場が見える。青いお社の屋根や、二本の橋が見える。
ヤミヌシの姿を見ることはできない。足音も聞こえない。森も沈黙してしまっている。町の方からは、ごくかすかに響く音があった。
「落ちるなよ?」
とアルルが言った。
「落とすなよ」
とヨゾラは答える。
アルルは三歩下がり、助走をつけて崖の端を蹴った。
なにもない宙空に身が躍りだす。
身体の重さがなくなったんじゃないか、と錯覚した直後
ばすっ!
という音を立てて、アルルの「翼」が開いた。ヨゾラの身体に重みが戻った。
魔法で形づくった、人の目に見えない翼。大人三人が手をつないでも抱えきれないような、大きく広い翼が二枚、風をつかんでアルルの背中いっぱいを支えている。
膝から下にも、細長い「尾羽」があるのがわかった。
上下左右、すこしずついろいろな方向に揺れながら、アルルとヨゾラは空を滑っていく。
襟ぐりから風が吹き込んで、ばたばたとコートの裾がはためいている。
ヨゾラの目はヤミヌシを探していた。
崖下から続く森の終わり。そこから黒い池が這い出てくるのが見えた。
町の中心からは左にそれている。夕陽に赤くそまる種まき前の畑を、真っ暗闇な染みが進んでいく。
闇の作る染みは、そこだけが世界から切り取られているようにも見えた。細い道を行く母子が、迫る闇から逃げようとして転び、母が子に覆いかぶさった。その上を何事も無く闇が通り過ぎる。母は顔を上げ、通り過ぎる闇を呆然と見おくる。
アルルが脚を蹴るようにした。空気を蹴って、姿勢を変える。
「お、おおおお、落ちる!」
ヨゾラは身体が後ろへ持って行かれそうになって、襟口に必死にしがみついた。
アルルは急降下しながらぐんぐんと速度を上げて、真っ暗な染みへと迫っていく。ヨゾラの視界が一瞬、真っ暗になった。ヤミヌシの闇を飛び越えた、とわかるのに少し時間がかかった。
アルルは闇色の池の前を、誘うようにゆらゆらと飛んでいる。その呼吸は大きく、大量に魔力を取り込み続けていた。
それでも、アルルの身体から徐々に魔力が減って行っている。
ヤミヌシはアルルに釣られない。少しずつ町の方へ進路がズレていく。
眼下に道が流れていく。屋根から湯気をあげる草ぶきの家があった。その家の前に長い棒をもった人が何人か集まって、なにかおしゃべりをしているのが見えた。もう少し右をみれば、お屋敷や仕立て屋に続く通りが見えた。
耳元で渦巻く風の音に混ざって、ごく微かに、金属的な甲高い音が聞こえてくる。
つきーん、きんきん
ばららん、どんどて、どん!
遠くで立ち上がるアーファーヤに闇は勢いを増し、町の中心へ進路を向けた。
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