第106歩: うちのでぶネコ
落ち着いてやればできるできる、とフラビーは言った。だから落ち着いてくれ。念じてアルルは目を閉じ、拳を握る。
顔の上を、カミソリがおっかなびっくり走る。
カウネと名乗った若い髪切りが、やたらと深呼吸する。
「どうなさいますか」と問われて詰まった所には、すかさずフラビーから指示がでた。すなわち
「先月わたしが切るだけやったんだけど、その後カミソリ当てなかったみたいだから、そこを整えてね。あとは、眉と顔剃りかな。大丈夫、落ち着いてやればできるできる」
先月のあの後、確かにカミソリは当てなかった。それを一目で見抜いたのは流石だなとアルルは思う。
しかし「お客さんやってってって」とは言われたが「練習台なってってって」とは言われてない。
もみあげのあたりや、首の後ろを剃るときはカウネの手つきも危なげ無かったのに、顔剃りに移った途端に様子がおかしくなった。
隣の、顔じゅうに
まさか切り傷の薬じゃないだろうな、と勘ぐる。
髪切り娘の口から、可憐な声で、一言漏れた。
「あ」
「うんうん、良い良い。いいんじゃない? あとはやっとく」
フラビーが仕上がりに頷くのを見て、アルルは心の底から安堵のため息をついた。鏡越しに気づいたのだが、カウネも同じようにしていた。
さっきの「あ」が何だったのか訊いてみたら、しどろもどろにこんな答えが返ってきた。
「それは、その、申し訳ないです。友人から聞いた話に、お客様とよく似た方が出てきたのを思い出してしまいまして、あの、つい声が……すみません」
誰と間違えたのか知らないけれど、肌が切れたとか眉が落ちたとか、そういうことでなくて良かったとアルルは思う。
「見せなさいよアルビッコ」
「そんなに変わってないと──」
隣からの声に振り向くと、蜂蜜色の瞳がいじわるに光っていた。してやったり、そういう顔だ。
シェマめ。
「どっちがいい? アルルくんとアルビッコ」
「……どっちでもいいですよ、先輩」
アルルの精一杯の嫌みをよそに、フラビーが慣れた手つきで髪除けエプロンの髪を落とす。するすると麦藁色の房が流れ落ち、しゅるしゅるとエプロンの紐が外される。
上着も
本当にいつでもつけてるな、あれ。
お
「おつかれさまでした」
カウネに声をかけ、フラビーが箒を手に取った。青と白の
「髪、結ったりとかしないのか」
「しないわ。どうして?」
「どうしてって……なんとなく。流行ってるみたいだからさ」
アルルの髪除けエプロンもほどかれる。
セチセテンボロ通りを歩けば、アルルにも流行りはわかった。帽子、
対して、シェマは何もしていない。
一つ結びもほどいてしまって、アルルにはどこをどう切ったのかさえ見当がつかない。
「そんなの、したいようにするだけよ」
つまらないことを訊かないで、とでも言いたげに先輩魔法使いが椅子から降りた。
「そろそろ」
窓の外をちらりと見やって続けた。
「うちのでぶネコを呼び戻さないとね」
花咲く茂みをくぐり、家の間をすり抜け、途中で野良猫と合流し、ケトはずんずん進んで行く。徐々にヒトの食べ物の匂いが強くなっていく。
「今日はここが良かろうな」
ぞろぞろと猫をお供にして、ケトが足を止めたのは料理店の裏だった。
コンコンコンコン、と馬車鉄道の重い鐘の音が聞こえる。このあたりに見覚えは、ない。
「ヒトの街で過ごすなら、狩り以外にもやりようはあるのだよ」
ヒトの言葉でそう言って、大猫は一声「マァァァァウ」と鳴いた。まごう事なき猫の鳴き声だった。その声に六匹の野良猫が一斉に座る。
何事かわからないでいるうちに、どすどすと中から足音が聞こえてきて、煤けた扉がきしんで開いた。
「こりゃまたご無沙汰じゃないかねタマ。またいっぱい引き連れておまえ。んぁ? 今日は新顔が
目の所に大きな傷のある男だった。
「マァァーウゥ」
鳴き声でケトが返した。
タマ? どれだ? タマ? とヨゾラは周りを見回す。野良猫たちは座ったまま「なんだこいつは」と言わんばかりにジロジロ見てくる。猫の言葉は知らないけれど、間違っていないと思う。
傷の男は一度引っ込み、薄汚れた木皿にいろいろと突っ込んで出てきた。整然と座る野良猫たちから、ざわり、という確かな気配を背中に感じて、ヨゾラは身構えた。
まけるもんか。
争奪戦。
ケトの一声で殺到する猫六匹に対して、ヨゾラはその腹の下から攻めた。白黒の一匹の顎の下から顔をねじ込み、はじき出されれば今度は背中の上から、頭を滑って皿の中央に飛び込んだ。
中身が何だったかはよくわからなかったが、火が通っていたものと、そうでないものとあった。とにかく肉類、あと臓物の類。
終わった時には
傷の男はケトへ一言「じゃ、今日も頼むわ」と厳つい顔をぐしゃっとさせ──ヨゾラが推測するに、笑顔だ──皿を持って引っ込んでいく。煤けた扉が閉まったのを合図に、音もなく野良猫たちが動き出す。あるものは床下へ、あるものは壁を登り屋根の下へと。
それをぽかんと見送るヨゾラに、ケトの影が落ちた。
「どういうこと?」
真っ黒な顎を見上げて訊くと、金色の瞳が答えた。
「ネズミをな。有史以来の伝統であるよ」
言うなり、ケトの舌がヨゾラの首をざらりと舐める。
「わ、なに!?」
ぞわりとした。
「じっとし給え。
しゃべりながら、ヨゾラの毛についた様々なベトベトをこすこす器用になめとっていく。ざらついた舌が絡まった毛に引っかかって、時々痛い。気持ちはくすぐったい。心地いいけど、ぞわぞわする。
「い、いいよ。お腹は自分でやる」
しまいにはひっくり返そうとするので、断った。
「ケトきょーさ、優しいよね」
「そうかな? 王族として客人をもてなすのは当然であるぞ」
「それはよくわかんないけど」
ヨゾラは自らの腹を繕う。
「自分は食べないで、あたしとかに譲ってたじゃん」
そこらの犬と張り合えるケトの大きさで、争奪戦に負けるわけがないのだ。ケトは初めから食べようともしなかった。
それを聞いてケトはこともなげに囁いた。
「私の分なら」
扉の中から足音が近づいてくる。
「あるのだ」
顔に傷のある男が、先ほどのものより明らかに香り高い一皿を運んできた。
牙をにっと剥き出した
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