第102歩: 思いがけず思い出す悲劇

 手桶の水も温かくなった。アルルは魔法フィジコの熱を止めて手を桶から抜いた。

 口でふやかしたビスケットを飲み込む。わずかな干し肉の残りは猫の胃袋に消えた。

 椅子の背で干しておいた手拭いを湯で絞り、体を拭く。

 明日にでも、石鹸が要るなぁ。

 残りの着替えの数を思ってそんな事を考えた。


「魔法が使えない人ってさ、体拭くときはどうしてるの?」

 ベッドの上からヨゾラが訊いてくる。

「冷たいの我慢して水で拭くか、かまどで沸かすか、かな」

 窓際の隅にしつらえられた、かまど兼ストーブに目をやってアルルは答えた。

 簡単な煮炊きは出来ても、排水と洗い物は一階だ。あんまり料理をすることはないだろうと思う。


 せっかくもらった新聞。体を拭きながら読もうとベッドにと広げたら、ひとつ記事が目に止まった。

 理由は良くわかった。知っている町の名があったからだ。


 "災い転じて何となる? エレスク・キーミカ買収へ"


「ヨゾラみてみろ。エレスク・ルーの事が書いてあるぞ」

 多少の興奮を覚えながらアルルが記事を指差す。紙面の中ほどにある文字列に向かって、黒猫が新聞の上を歩いてくる。


「踏むなよ」

「字が遠いもん」

 

 猫が紙面にかさりと伏せた。壁付けの魔力燈で毛並みが藍色に滲む。 

「これ、今日もらったやつでしょ? って何?」

 自分の腹の下を覗き込むようにヨゾラは言う。

「新聞ってのは、なんか、いろいろ書いてある紙だ」

「あたしにもそれはわかるぞ」

 上目遣いでにらまれた。

「どんなものかは……実物が目の前にあるんだ。読んでみようぜ」

 とりあえず、今の記事からだ。


 "──北の女傑は南の巨人を喰らうのか、救うのか。

 かねてから進んでいたエレスク・キーミカとライリ・マーラウス海送の業務提携は先月、一つの暗礁に乗り上げた。山の富を占める巨人エレスク・キーミカ社長の突然の引退。この交代劇をうけてライリ・マーラウスは提携から一転、買収の動きを表面化させる。女傑ライリは波に乗るのか。買収が成功すれば、鉱物資源、特に安価な火薬の移入が期待され、ユリエスカのみならず北半島の──"


「知らないことばだらけで読みにくい。これ、何の話?」

「あそこの火薬工場の社長が引退したって」

「いんたい?」

「社長やるのをやめたってことさ」

 引退した社長には面識があった。ウールク・ゴーガン。工場の経営でエレスク・ルーを大きくした男。それがエレスク・キーミカから離れて、これからどうするのだろう。

 仕事もやめて、全力で息子を守るのだろうか。

 あんな息子を。


 背中を拭いて、手拭いを絞る。

 今の記事のすぐ下に、また同じ町の話題が載っていた。


 ”エレスク人狩り事件、六人目の遺体発見”


 体を拭く手が止まった。


 ”今月十五日、哀れな娘たちの最後の一人が見つかったと地元の警邏隊から発表があった。犯人の供述に曖昧な点が多々あり発見に時間がかかったとは警邏長の弁である。殺害された六人の娘達の内、身元が判明したのはサナ・イフビカ嬢ただ一人であり、名前も判らぬ娘たちは地元の祭司によって弔われる予定だ”


 ──サナ・イフビカ。


 乾いた指の骨、無造作に埋まっていた体、蝶々の髪飾り。

 揺れるカンテラの灯り、割れて飛び散ったガラス。


 サナって名前だったのか。


「アルル、どうしたの?」

 ヨゾラの緑色の瞳が覗き込んできていた。


「……前に、幽霊の女の子に会ったろ」

「あたしのしっぽ引っ張ったやつ?」

「まぁ、そう。ここに、その子の名前が書いてあった。サナって名前だったって」

「サナ……ちゃん?」

 もしかしたら、そう呼ばれていたかもしれない。

「あの野郎に殺された人、その子以外にあと五人いてさ。全員の遺体が見つかったらしいんだ」

「その……って?」

「死んじゃった人の体だよ。あの祭司さんが弔いをするって」

「きんきんきんきんの人か」

 アルルは頷いた。

 あの小屋で指の骨を見たときの、幽霊の姿を知ったときの悔しさ、やりきれなさを思い出す。


 あの灯り屋さんは、どうしているだろうか。


 ──すべて生けるものは死せるときまた旅立つものなり。


 せめて旅立ったあの子が、次は誰にも撃ち殺されない世界で、幸せに産まれていればいいと願う。

  

 ──またいずれかの世の夜をあしたに出逢わんことを。


 

 ふと落ちた沈黙を、ヨゾラが破った。

「エレスク・ルーって、やっぱり遠かったよ。この紙さ、なんであんな遠いところの事が書いてあるの?」

 感傷的な気分から引き戻され、アルルは小さな猫の質問に答える。

「それは、誰かが知らせてくれたんだろうさ」

「誰が?」

「新聞の……人が」

 アルルもその辺りには詳しくなかった。

「あとね、やっぱり知らないことば多いや。今から全部読むから、わからないところ教えてよ」

「全部?」

「ぜんぶ!」

 全部でびっしり四ページ。

 その分量をわかっているのかいないのか、黒猫が新聞の上に伏せたまま、しっぽを立てて揺らしている。

 やる気と期待に満ちた緑の目としばらく向き合って、アルルも腹をくくった。疲れてはいるけど良い機会だし、この黒猫に付き合ってやってもいいかもしれない。

「……体拭いたら、お茶いれるよ。お前も飲むだろ?」

「飲む」

「じゃ、それまで頑張って読んでみな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る