第128歩: 四千歩の糸、九百匹の猫
呼吸を、繰り返す。
意識を広げて、体の中と外の境目を曖昧にして、呼吸を繰り返す。
ウ・ルー六区南東部、
そこから視線を下ろせば、大波に見え隠れする帆船の影。
呼吸を繰り返し、できる限りの魔力を体に留めながら、アルルは合図を待っている。その指先から三本の「糸」が碧くまっすぐ伸び、海の青に紛れていた。
帆船を隠すほどの大波は港にも押し寄せ、係留中の船にぶつかっては噛みつくように港に降りかかる。
ぎっ、ぎっ、ぎぎっしぎ。しぎっ、しぎっ、ぃぎぃい。
波に弄ばれ無人の船が軋む。係留索に繋がれた船は、首輪から逃れようと暴れる獣に見えた。
海さえ見なければのどかな風景。
晴天で、灯台は海風にべとつく。
陸地を恨むかのように噛みつく波はしかし、その暴れ具合に見合うだけの魔力を
揺らぐもの、波打つものから魔力は生まれる。
帆船を孤立させたのがこの大波なら、その救助を可能にするのもこの大波だ。灯室の外をぐるりと囲む足場に、アルルとハマハッキが座っている。
「ハマハッキ様ぁ。かもめの止まり木、出ましたぁ」
灯室を囲むガラスの一枚から伸びる、白く透き通った蜘蛛の糸。ハニの尻から伸びる糸が、彼女の声を伝えていた。
「了解だハニちゃん! 波のかかんない所にちゃんと掴まってんだぜ!」
ガラスに向かってハマハッキが大声を上げる。
七つ数える間の後で「はいな!」と帰ってきた。
「あたしのおしごと、まだ?」
「もう少しだ。これから錨があがる。そしたら俺たちの出番」
傍らに腹ばいで待つ猫の背が、陽の光で盛大に滲んでいる。海風に毛がなびいて、藍や紫がヨゾラの背を巡っている。
当初の、小舟を「止まり木」にして沖へ向う試みは頓挫した。
その時に出た、ヨゾラの思いつきが形になりつつある。
──あの船をフィジコで引っ張ればいいんじゃん?
──帆柱の上とかならさ、簡単に降りられるでしょ?
ロッキの書いた手紙と、糸を
船まではざっと二
三度目にして船に「糸」が届き、ハニが帆柱の根元に「糸」の先端を貼り付けた頃、ロッキも港側との打ち合わせを終えた。ありったけの綱やら梯子やらを集めて、外港の男たちが準備を進めているはずだ。
ようやくだ。
そして、これからが本番。
「がんばろうぜ」
ヨゾラに声をかけた。
「まかせてよ」
どことなく弾んだ声が返ってくる。
錨の巻き上げはまだ終わらない。
あっちの仕事はもう終わっただろうかと、青年は思う。
その頃。
ウ・ルーの北へ城壁を抜け、十区も
「──あんたが猫の王族っていうの、納得だわ」
「叔父上の権能には遠く及ばぬよ」
ケト曰わく、臣民の数およそ九百匹。
その中心に魔法使いと使い魔が立つ。
囁き猫退治だ。シェマ自身にも因縁がある。
「猫もこれだけ集まると、けっこう怖いのね」
思いがけない圧迫感を覚えながら、シェマが肩掛け鞄の
エサか!? と言わんばかりの緊張がざわっと猫絨毯に走り、魔法使いの娘はぎょっとする。
「襲われたらまず助からんぞ?」
「……意地悪」
ぐふふ、と笑う使い魔を軽くにらんで娘はひとつ深呼吸した。
「始めるわ」
左手には小箱。
右手には三角形に折り畳まれた新聞。
猫、特に黒猫は夜に繋がる。その繋がりをたどって魔法使いは語りかける。黒猫なら、この場所にたっぷり居た。
魔力視を開いて、夜を辿り、呼び出すのは闇。
「おいでませい、ヤミモリ」
体の奥からすぅっと魔力を抜かれる感覚。わずかな虚脱感と引き換えにあちこちで闇が吹き上がる。魔法使いの求めに応じて、闇が猫絨毯もろとも辺りを覆う。ひやり闇のなか、猫たちも息をひそめ深く深く、静寂がおちる。
ひそひそ。
真の闇であるはずの空間に、二つの点。
ひそ、ひそひそ。
四つ、六つ、八つ、十六、三十二。さらにふつふつと浮き上がる小さな目の光。
ひそひそ。
ひそ。
ひそひそ。ひそひそひ、そひそひそひそ。
ひそひそひそひそ。予想していたよりずっとひそひそ。ずっと多くのひそひそ。そひそひひそ。ひそひそひそひそひそひ。ひひそひひそひそひそひそひそ。ひそひそひひひひひひひそそそそそそそ。
「ねえ」
来た。
闇の中、見られていないと錯覚して、囁き猫が動き出した。
「ねえ、なにしてるの?」
「ねえ、どうするの?」
「ねえ、どうしたいの?」
ねえねえと猫が鳴く。
予想はしていても、心がざわざわと粟立つ。
囁き猫。不安と焦りのもの。
「ねえ、昨日と何か変わった?」
「ねえ、これがやりたいこと?」
「ねえ、急がないでいいの?」
「ねえ」
「立派な魔法使いになるんじゃないの?」
心臓が不規則に跳ねた。
「お祖母さまの無くしたもの、取り戻すんでしょ?」
──私だ。私がいる。
闇の中に、髪をお団子にまとめた少女の幻が見える。胸元に、黒い石のお守りを揺らして。
猫が囁く。
「ねえ、こんな所にいていいの?」
「ねえ、こんな事してていいの?」
「ねえ、何ぐずぐずしてるの?」
「ねえ」「ねえ」「ねえ」「ねえ」
──わかってる。そんなことは、わかってるのよ。
「ねえ」
焦りがシェマの心に忍び込む。魔法のために意識を広げている今は、「不思議なものたち」からの影響も受けやすい。
呼吸が浅くなる。手のひらに冷たい汗が滲む。
本当に、こんなことをしていていいのだろうか。もっと他にやるべき事があるんじゃないだろうか。おばあさまが思い出を手放しながら育ててくれたのに、遠く離れて、こんな所で、こんなものを相手にして──
ふわり。
ふくらはぎを撫でる温もりがあった。
ケト。
気まぐれでぐうたらのくせに妙にカンの鋭い相棒。
昨日「囁き猫なんて」と言ったのはどこの誰だったか。
──バっカみたい、私。
結局いつも、助けられてしまう。
ぱちり、小箱の掛け金を指ではじいた。
中身は心得ていた。緑色の紐状のもの。ヤミモリたちと繋がったまま、娘は新たなものから魔法を引き出す。
魔法の多重発動。
「うるさいのよ」
右手を振り上げた。
持っているのは、新聞を折って作った子どもの
「たかが空気の分際で」
その三角形の紙を、鋭く振り下ろした。
中に畳まれた袋状の部分が一気に膨らみ、瞬時に増大した空気の抵抗が衝撃となって紙は鋭く震える。その震えを、先ほど箱から出したもの──
ずぱぁん!!!
強烈な破裂音がでた。
びっくり紙。またの名を紙鉄砲。新聞に作り方の載っていた玩具。新聞買うと遊べるよ、だ。
闇が晴れ、一目散に逃げていく九百の猫に置いてきぼりを喰らって、湯気のように頼りないものが浮いている。
その湯気に、シェマは左手の小箱を向けた。ヤミモリからも木霊からも繋がりを解き、目の前に姿を現したものへ働きかける。
この箱が家だと、あるべき場所だと。
「お帰りなさい、囁き猫!」
湯気が渦を巻いて箱の中に流れ込んでいく。箱の内側に描かれているのは、小さなものを留め置く魔法陣。
ツェツェ──ツェツェ──。
高名な魔法使いなのに、いつも名前が出てこない。
箱の魔法陣も、囁き猫の対応方も、そのツェツェなんとか氏の研究によるものだ。囁き猫の論文は共同執筆者がいたはずだが──何スティオだったか。
とにかく、先達に感謝だわ。
シェマは箱の蓋を閉じ、掛け金を留めた。
「ケト」
「ご苦労であったよ、あるじ」
足元で相棒が目を白黒させている。
「ごめんね。あんたも、あんたの臣民たちも驚かせちゃって」
「まぁ、それで奴らを我らが臣民から追い出せるのだから、仕方あるまい。彼らには後で労っておくとするが……猫の姿を騙るものには
ぶるぶると相棒が頭を振る。
囁き猫は猫ではなく、気体である。空気のようなものが猫に憑いて囁くのだ。
聞く人の不安や焦りをあおり立てるように。
今のウ・ルーだからこそ多く生まれ、今のウ・ルーには相性が最悪なものだった。
もうヤミモリも木霊も姿はない。
「ケト」
「なにかな?」
「あんたも、かわいいとか思う事あるのね」
「あるぞ。私から見れば、あるじもだいぶ可愛いものだが」
「ちょっと? なにそれ?」
相変わらず生意気な使い魔だ。
「戻りましょ。昨日みたいに騒ぎになってないと良いけど」
「気がすすまぬなぁ」
「言わないで」
野原から道に出て、ウ・ルーの城壁へ向かう。
「そうだ。帰ったらブラシやってあげるね」
「ぐふ? どうしたのだ? ぐふふふ優しいではないか」
その笑い方はやめなさいと何度も言っているのに。
「今日はあんたの毛並みに助けられたもの。毛並みにお礼してあげないと」
「あるじよ、もう少し素直になっても良かろう」
大猫の金の瞳が不満げにすぼまる。
「いつでも素直よ、私は」
協会までは歩いておよそ一刻。
あっちの仕事は長くかかりそうねと、娘は思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます