第148歩: ぶるぶる、ずるずる、ぐるぐる
しっぽ髪はその魔法を「猫のぶるぶる」と呼んだ。
猫の身体を持つ身としても、あれは、うん、そうだね、ぶるぶるだね、とヨゾラは思う。
ただ、ヒトがそれをやるのは初めて見た。しっぽ髪のしっぽが本当のしっぽみたいに震えたのも見た。
感想は、ハニが言うのが早かった。
「できるん……だぁ」
「ほんとだよね」
半分ぐらい猫なんじゃないだろうか、しっぽ髪は。
二匹の怪物は絡み合い糸玉のようになって、水平線にうかぶ西の山並みを背に沈んでいった。
アルルとシェマ、二人手をつないでぶるぶると水気を飛ばした甲板中央にも、くぉん、くぉおおおん、と二度の鐘が聞こえる。
船が出てから、一刻がたったのだ。
ほぅ、とアルルが大きく息をついて、思い出したように肩掛け鞄を開けた。
「──ぐちゃぐちゃだけど、鞄の中にも効くのか。むちゃくちゃ幅広いな、猫の魔法」
「使い魔が良いのだ」
「主がしっかりしてるのよ。よく落ちなかったわね、その鞄」
アルルとつないだ手をしっぽ髪が、すっ、と離す。
ヨゾラはそれがわからなくて、気にくわない。
さっき、魔法をわけるためだと手をつないだ時も、見てきた。
時々あたしをちらちら見るのはなんなんだよ。
そう思いながら、ヒト二人のぶるぶるで飛び散ってきた水を、ぶるぶる自力で払う。
アルルもシェマもケトも、ほっとした顔を見せていた。デカくておっかないやつらから離れて安心したのは、ヨゾラも同じだ。大して動き回ったわけでもないのに、安心したら、なんだか身体が重たい。
「面舵いっぱぁぁい!
「
船の後ろから前まで「舵舷結び」と声が繰り返され、また帆綱が解かれていく。
──いまでも、
ふいに思い出した。
──昔の船は舵板が左側にあったから、そっちを舵舷と呼ぶ。港に横付けする時は
頭をぶるぶる振った。煩わしかった。
それは、いま考えたい事じゃないんだ。
「ねえアルル」
「どうしたヨゾラ」
アルルがいつもの顔に戻って、黒い瞳が、いつものように見下ろしてくる。いつもの。
ふいに胸がぎゅっとした。
喉が詰まって、言おうとした事が出てこない。
「ヨゾラ、どうした?」
しゃがみこんだアルルの、茶色い顔が近づく。そのぺたんこの鼻に、全部ぶちまけてしまおうか、そんな衝動にかられる。
「あのねアルル」
あたしはね──
「おおーい! そろそろロッキさんが魔法を解くってよ!」
ハマハッキだ。大きな声で呼びかけながら、こちらへ向かってくる。お腹の下に突然手が差し入ってきて、ヨゾラは抱き上げられた。
見上げると、訊く前にアルルは答えた。
「いや、危ないし」
「はぁん
蜘蛛が甘ったるい声をだしながら、床をかさかさと前後左右くるくる回る。
ヨゾラはくすぐったく感じた。アルルは二度ほど鼻をしごいた。
「俺たちは船室に引っ込んでおこう。お前の話も中で聞くよ」
頷いてヨゾラは、忘れ物に気がつく。
「あ、手紙! ちっさい舟の中!」
「あっ!」
しっぽ髪も声をあげた。
小舟の底に引っかかっていた手紙を拾い、共同船室に戻ったあたりで報せが回るのが聞こえた。
「鐘三つで魔法は
次いで、からん、からん、からんと鐘がなる。
三人の魔法使いはその時に備えて床に座り、それぞれ
「これは、たまらぬ……!」
腹ばいのままケトが、床の傾きのままずるずると流れていく。
「……存外面白い」
ずるずる別方向へ流れていく。
ヨゾラもちょっとやりたくなったけれど、我慢してアルルの太腿に爪を立ててしがみつく。胸がぎゅっとするのは治まった。言わなきゃいけない事があるのだ。アルルに頼まれたおしごとは、それでようやく終わりだ。
だが、邪魔がはいる。
「へへ、へへへへへへ」
「ちょっとハマハッキさん、変な声出さないで」
「へへ、え? シェマさん何だって?」
ハマハッキが妙に早口だ。
ひっきりなしに船体を叩く波の音と船の軋みで、大声を出さなければ会話にならない。
「変な声を出さないで、って言ったの。どうしたのよ?」
「ハマハッキ様は船がぁ、苦手なんですよぅ」
ハニが糸を繰り、ぐるぐると主人を柱にくくりつけながら庇う。
「それなら、なんで志願したの?」
「いや、へへ。あれだよあれあれ。ちょっとばかし、アリスコさんにいいトコみせたくてさ」
「なにそれ
シェマが柱でおでこを打った。
「大丈夫です?」
「あるじ」
「痛そうな音したぞ」
「おひゃあ……」
「頭へーき?」
うんざり、と顔をあげてシェマは気丈な事を言う。
「──たんこぶひとつ、アザひとつにつき特別手当が欲しいわ。銀五枚でいい」
「背中のアザ数えましょうかね?」
「やめて」
「あ、や……すんません」
逃れるように蜘蛛の魔法使いは話を戻した。
「いやアリスコさんね。別にそうとかこうとか、そんなつもりはないんだけども、ちょっとまぁお悩み相談されちまってさ? ほら、あの人お
蜘蛛の糸で柱にくくり付けられた男が早口に、唇をわななかせながらそう言う。
「ハニもぉ、海とは相性良くないんですけどぉ、ハマハッキ様のためなら頑張れるんですよぅ」
主人をくくり終えた銀毛の蜘蛛が、両方の第一脚を振る。
「へへへへへ。でもこれ、やっぱしおっかねぇ。沈む、沈んじまうよぉ」
「やめてくれよ縁起でもない。せっかくいい話だったのに」
たまらず、といった感じでアルルも声をあげた。手にはペブルからの手紙を持っている。
話が途切れた。
今だ、と思ってヨゾラはとにかく声を出した。
「アンケリアス! って知ってる?」
やっと言えた。船室の全員がぱっと注目してくる。最初に反応が来たのは、船室入り口からだった。
「黒猫のお嬢、
声に振り向くと、戸枠にもたれ掛かるように掴まるロッキ・アーペリと、その腕に抱かれたクービアックがいた。
「出航からわずかの間に、いろいろあって、大変でしたね皆さん──お疲れ様です」
青い瞳はくもり、出航前よりも顔が骨ばっているようにさえ見えた。ここで唯一の正規雇の魔法使い。この場にいる誰よりも疲れている男の発言だった。
揺れにふらつき倒れそうになったロッキに、アルルが素早く「糸」を飛ばして支える。
そのままロッキは一番入り口に近い吊り床に入ると、腰と胸のあたりにある留め紐を縛った。ちょうど細長い袋に収まるような形になる。
アルルに一言礼を述べて、ロッキが続けた。
「さて皆さん、こんな姿勢からで誠に申し訳ありませんが、ご存知の通りいろいろと想定外の事がありましたので、いまから打ち合わせをさせて下さい」
ぐるぐる巻きのハマハッキがまず答えた。
「いやぁ、姿勢を謝るならオレですかねぇ」
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