第114歩: ハニの吊り床

 頭上の白く大きな吊り床ハンモックからするすると降りてきたは、何もかも場違いな甘ったるい調子で名乗った。


「はじめましてぇ。ハニと申しまぁす。ハマハッキ様の使ぃ魔でございまぁす。今朝はハリハリムシをありがとぅございましたぁ」


 大人の手のひらより大きく、細かく美しい銀毛がもしゃもしゃと生えた六眼八脚の、つまり蜘蛛くもだった。

 真ん中の一対の眼をやたらとさせ、ぷっくりした腹の部分を持ち上げふりふりと、犬のしっぽみたいに振っている。その尻からまさに蜘蛛の糸が頭上の吊り床へと伸びていた。

 銀毛の蜘蛛は板の中ほどをがっしり捕まえて、後脚ですいすいと糸を巻き取っていく。

「使い魔って、いろんなのいる」

 ぽそりとヨゾラは呟いた。


 助けた男はがっくりとうずくまって、しゃべる蜘蛛には何の反応も示さなかった。女の子の方は特大の蜘蛛を前にして身動きひとつせず、ふぅぅ、ふぅぅと音を立てて息を吐いている。拳を握りしめ、見開いた目の中で、栗色の瞳が何かを探すように激しく動いている。

「大丈夫だ、怖いクモじゃないよ」

 ただならない様子にアルルが声をかけた。

「そうですよぅ、お嬢ちゃん。ハニは優しぃクモなんですよ?」

 ハニがおどけるかのように、いちばん前の脚をあげて振ってみせる。


「やぁあああああああ!」


 女の子が奇声をあげた。

 男がぼんやり顔を上げる。

 何度も叫び声を上げ直して少女は、高く足を振り上げ、蜘蛛の頭の上へと。


 その足が空振って宙を掻く。 


 とっさに少女を後ろから抱き上げた男は、自分の行動に自分でも驚いているように見えた。

 女の子がわめきながら足をばたばたと蹴る。いやだ、もうやだ。ぜんぶやだ。おうちかえして。おかあさんとこかえる。おとうさんとかえる。

 突然のことに魔法使いは声も出ず、蜘蛛はと脚を降ろして仕事にもどる。

「辛抱……しような。もうちょっとだからな。もうちょっとしたら、おうちにかえろうな。辛抱しような」

 子どものわめき声と、男の呪文のような繰り言をのせて、かもめの止まり木は蜘蛛の吊り床へと引き上げられた。

 



 錯乱する女の子をとりあえず落ち着かせたのは、吊り床の上にいた数名のお婆さんとおばさんだった。

 協会の事務室ぐらいに広い、目の細かな網の上に何人もの人が身を寄せ合っている。一様にずぶ濡れで泥まみれで、口々に語り合っている。

 今後のこと、ここにいない家族、友人のこと。


「シェマ、大丈夫か?」

「きみこそよ」

 アルルとの短いやりとりの間にも、しっぽ髪は通りを流れる水から目を離さない。網の上に伏せたその脇には、真っ黒な大猫が腹ばいに伸びていた。

「ヨゾラ君、アルル殿から降りない方が良いぞ。われわれだと歩けぬ」

 よく見ると、ケトの足は網の目にすっぽりはまって向こう側に突き出ている。いささか情けない姿の王族ネコガトヒアウの反対側に、街の人なのか、一人の屈強な男が立て膝で控えていた。


 もう一人の魔法使い、縦長ハマハッキは引き上げたばかりの女の子の前にしゃがみこんで、怪我の手当てを始めるところだ。


 ハマハッキの指先がひらひらと、宙から銀糸を絡め取っては女の子の腕や手のひらの擦り傷、切り傷を塞いでいく。

「ハニちゃんの糸はすんごいんだぜ。痒くなんないし、怪我が治ったら糸が勝手に取れっから。それまでは取るんじゃないぞお嬢ちゃん。水が引いたら皆と一緒に降ろしてやっから、おとなしくしとくんだぜ」

 そう声をかけるハマハッキの背中に蜘蛛ハニが隠れてソワソワと動きまわっている。


 しっぽ髪の両腕にも、手袋のように蜘蛛の糸が巻きついていた。その理由はすぐにわかった。

「クァタさん!」

 網の反対側から上がった声にシェマが呼応する。

「猫は──」

 網から身を乗り出して下を確認し、猫の魔法使いが魔法を発動させる。

「よく伸びる!」

 しっぽ髪の肩から先が伸びた。

 あたしは伸びない、とヨゾラが思うほど伸びた。

 これでもかと伸びた。

 眼下の引き波に突っ込んだ腕で、流されていた人を捕まえる。人の重さに引っ張られるシェマを、隣に控えた男が捕まえる。

 流れてくる様々な物に腕を打たれ、痛みと重さに端正な顔を歪めつつも一人引き上げる。

「もう一人!」

「ハニがぁ、いきまぁす!」

 今度は蜘蛛が八脚を開いて飛び降りた。


「俺たちも行こう。頑張れなくなったらすぐに言ってくれ」

 吊り床の縁に立って、アルルがそう言った。目の前にはガザミいちだった海原。

「うん。がんばろう」

 ヨゾラは応えて、魔力の流れに意識を向ける。


 さっきと同じように。自分の中に感じる繋がりを辿る。アルルの居場所をカンで見つけるのとおんなじだ。そのカンの向こう、そこに感じるアルルへ、意識を伸ばす。

 ──そうそう。

 意識がアルルの背に触れた、そんな感覚がある。


 ヒゲと、上唇の裏あたり、黒猫ヨゾラはそこで魔力を感じ取る。アルルの呼吸で魔力に広く流れが出来ている。魔法使いが取りこぼした魔力をさらに拾って、意識の向こうのアルルへと。

 ──飛んで、アルル。


 ばすっ!


 今日で三回目の「翼」が開いた。

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