第115歩: 立派な魔法使い
横たわる人の体。
ウ・ルーに駐屯する西部連合の軍隊が手早く
死者を覆う布はとても足りず、未だ野ざらしの遺体も多い。
高波の発生から三刻、夕陽は西高地の山影にかかる。
身元の分かった遺体から順に火葬が始まるはずだった。街の他のお社からも祭司が駆けつけるだろうが、まだ時間がかかるはずだ。
発生から単刻足らずで水は引き、そこから本格的に開始された軍と
アルルも遺体を運び込むのを手伝い、ここでシェマ、ハマハッキと居合わせた。
運びこまれた遺体の中には、ガザミ
石鹸売りの夫婦、はさみ焼き屋台の男、共用テーブルの下に大小の黒猫を覗き込んだ人々。あの時ガザミ市にいた人たちのいったい何人が生き残ったのだろう。そう思わずにいられない。
遺体はマンジァのお社に、という知らせを耳にしたのか、訪れる人がぽつぽつとある。身内を見つけて泣き崩れる人たちの中に、アルルは助けた男の姿を見た。奥方とめぼしき女性と一緒だった。
あの少女の姿はない。
ひょるるるる、とそれぞれの鞄から鳴る山彦笛。
「行きましょう」
疲労をにじませて、シェマが言った。
アルルとハマハッキは無言で頷いた。
ヨゾラは自力で立てなくなるほど疲弊していて、鞄の中で寝させている。
水が引くまでの短い時間で三人を水から引き上げ、四人を吊り床へ連れ帰る事ができた。
ヒトひとりを抱えて飛べる程の力と持続力を「翼」に与えてくれた、不可思議な現象。この黒猫が突然自覚した「魔法」と言うべきもの。ヨゾラの「がんばる」がなければ不可能だった事だ。
あれが何だったにせよ、今はせめてゆっくり寝かせてやりたいとアルルは思う。
ヒト三人がお社の広場を抜けようとしたとき、アルルの視界に白く人影が入った。ふとそちらに目を向けると、一人の女の子がぱたぱたとこちらに走ってくるのが見えた。
見覚えのある、十歳ぐらいの女の子だった。
真っ白い髪に真っ白い服が夕陽に赤く染まっている。河の子を指差して、にこにこ笑って、どきどきするとか言っていた女の子だ。高波がくる少し前、本当に少しだけ前に、あのガザミ
少女が何かの奇跡のように走ってくる。
「アルルさん、どうかしたんで──?」
思わず足を止めたアルルにハマハッキが振り向き、言葉をのんだ。その背でハニも眼を向け、シェマが足を止める。
「──アルルくんお願い。いま泣かないで」
気を張った、硬い口調にアルルは誤解を解こうとする。
「いや、違うんだ、これは……」
その間にも白い女の子は距離を詰め、三人の魔法使いを前にしてぱたと足を止めた。
「ねぇ、お姉さんたち! お姉さんたちはりっぱな魔法使いでしょ!?」
この場所には似つかわしくない、元気のいい声だった。その元気の良さにもアルルは救われた思いがする。
洟をすすり膝をつき、女の子の赤く大きな瞳を覗き込んで、青年魔法使いは声をかける。
「……怪我は、ないか? どこも、痛くないか?」
「大丈夫。わたし怪我しないよ! お兄さんなんで泣いてるの? 泣き虫なの?」
「泣き虫、じゃ、ないぞ。嬉しいんだ。君が生きてて、嬉しいんだよ。帰れるか? 帰り道わかるか?」
「わかるよ! ねぇ、りっぱな魔法使いなんでしょ?」
少女はシェマを見上げて言う。蜂蜜色の瞳が揺れる。
「そんな事……わからないわ」
「ふーん。ねぇ、大きくて恐ろしいものが来たんだよ? それをやっつけたら立派?」
この女の子の元気は、重度の塩切れをおして働き続けた魔法使いには、むしろ重たいようだった。
「そうかもしれないわ……ごめんなさいね、お姉さんたち、急いでいるの。暗くなる前に、おうちに帰りなさい」
おそらく精一杯の、優しい口調でシェマが諭す。
「はーい!」
満足げな返事をして少女がお社前の坂を駆け下りていく。それと入れ違いに身元不明の遺体を載せた馬車が、また一台ゆっくり坂を登ってくる。
アルルは涙を拭って立ち上がった。
「アルルさん、けっこう涙もろいのね」
蜘蛛の魔法使いが声をかけてきた。知り合って間もない相手に見られたのは、アルルも気まずい。
「いや、あの子、直前までガザミ市にいたんだよ」
アルルの言葉に対して、ハマハッキは飄々と言ってのける。
「ああ、なら、生きてたのはホント奇跡だわな。でもこう言っちゃあナンだけどもよお、ずいぶんと変なガキんちょだったな」
「ハニはぁ、あの子ちょこっと苦手ですぅ」
蜘蛛が主人の背で同意した。
そんな事言わなくても、とアルルは思ったのだが
「たまにいるわ、ああいう子……行きましょう、二人とも」
シェマの様子があまりにしんどそうで、それ以上は言わなかった。
この日、最大で高さ五
特に
死者はこの日確認されただけで三百を越え、入り江、および入り江に浮かぶ小島にはまだ多数の遺体が取り残されたままだ。
お社の丘から望む入り江は、高波が嘘だったかのように夕陽に輝いていた。しかし、そこに出ている多数の小舟が現実を示していた。
誰もが高波による被害に気をとられ、海竜の逃亡がもたらす影響に思い至った者はただの一人もいなかった。
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