第113歩: 生き残ってからにしなせぇ
魔法が効き過ぎるのは、初めてのことじゃない。効き方が多少極端なだけだ。同じ事だ、落ち着け。魔力が勝手に入って来るなら、利用するだけだ。
集中しろ。
少女と黒猫を胸に抱え、アルルはもと居た木へ空を滑る。
体を立てて勢いを殺し、幹に垂直に着地し、左手で細枝を手繰り寄せる。細かい枝が頬をかすめて傷をつくる。
「がんばったぞ、あたし」
足場の確保と程なくして、ヨゾラが荒く息をついて言った。気づけば不可解な魔力の流入が止まっていた。
アルルは確信する。やはりこのものが何かをしたのだと。
第二波が足下で渦を巻き、太い幹が細かく震えていた。
腕の中でえぐえぐしゃくりあげる少女にアルルは声をかける。
「大丈夫だ、よくがんばった。もう大丈夫だ」
そうして、娘を呼んでいた父親に目を向けると、父親は蒼白な顔で呆然と少女を凝視し、ぽつり
「娘じゃ、ない」
と言った。
弾かれたようにアルルが海に目をやっても、それらしい人は見えない。
「スリッカは? 娘は?」
再び取り乱しそうになる男を制して、アルルは口を開く。
「また探しに行きます! この子を頼みます!」
しゃくりあげる少女の体をフィジコで支え、一段低い枝に跨がる男へゆっくり差し出した。男は歯を噛み締め、焦燥を顔に浮かべながらも女の子を両腕で受け取った。
肩掛け鞄に手を入れ、塩を出して口に含む。逆巻く流れから滲み出る魔力の渦を意識に捉え、呼吸と共に取り込んでいく。
とにかくもう一度。
「ヨゾラ」
「待って。ほっぺ」
黒猫が襟元からよじ登ってきて、魔法使いの左肩に前足をかけた。そのまま、ざりっと頬を舐められる。
「血、でてた」
傷を舐めとる猫。すっかり忘れていた。
「ごめん、助かる」
「いいよ。あたしもまたがんばるよ」
ヨゾラがシャツの中へと戻っていく。
アルルが再び幹を蹴ろうとしたその時、ぶん! と鳥が一羽、目の前をかすめた。
「旦那がたぁ!」
鳥が声を上げて旋回し、枝の上に降り立つ。
奇妙な光景だった。かもめが木に止まっている。
「第二波も引きが始まんです! ここにいちゃ危ねぇですぜ旦那がた!」
黄色いクチバシをカタカタ言わせ、鼻がないくせに鼻にかかった声をだす。
「あっしはクービアック、魔法協会はロッキ・アーペリ様の使いでさ!」
かもめの止まり木。
クービアックは自らの魔法をそう呼んだ。
濁流に流されもせずぷかぷかとテーブルほどの板切れが浮いている。その板へ、アルルが男と少女を
板の端でかもめが声を張り上げた。
「安心してくだせぇ、あっしの魔法が効いてる間は落ちも沈みもしませんぜ。旦那も早く!」
「俺は残る! その人の娘さんとその子のお父さんを探さなけりゃ!」
「一人でやるんですかい? この状況で無茶ですぜ!」
「だけど!」
足場にしている木が、ぼり、と低い音を立てて傾いた。落ちかけて、慌てて幹を掴む。
「急ぎなせぇ旦那! 置いてっちまいますよ!」
「アルル、ここが倒れたら、戻れなくなっちゃう!」
ヨゾラが切迫した声をあげた。
市街の建物は健在だが、ここからは距離がある。アルルは「止まり木」へ降りようとして、助けた男と目が合った。怯え、
「あ、あ、あき、あきらめないでくれ……諦めないでくれ」
アルルの心臓が凍りつく。
ここはもう無理だ、というのは感じていた。だが、それをこの父親に告げるには、青年は若すぎた。板挟みに体がこわばって魔法使いの動きが止まる。
「ここいらはあっしが見て回りますぜ、早く降りんです!」
みしり、と不穏な手応えがアルルの手に伝わってくる。
「アルル! 倒れるって!」
胸元で黒猫が上げた悲鳴に、アルルは飛び降りた。
父親が両手で顔を覆い、低く長い呻き声をあげる。
板がすっと木から離れて行く。直後に木が完全に倒れる。クービアックが来なければ、何もかも無駄になるところだった。
「ハマハッキの旦那が避難場所を確保してるそうですぜ。止まり木はそこまで送らせるんで!」
かもめが翼を大きく広げて飛び立ち、低く周りを旋回する。
「いいか
クービアックの声に応えて、濁った水から銀のしぶきがいくつも立った。しぶきに先導されて、三人と黒猫を乗せた板切れが水上を勢いよく滑っていく。
「いいですか旦那がた、人捜しは水が引いてから、生き残ってからにしなせぇ!」
最後に一声あげて、しゃべるかもめが飛び去って行った。
かもめの止まり木は不思議と安定して、落ちる気がしなかった。
海に覆われた公園がどんどんと遠ざかる。
「スリッカ……マンジァ様、どうか……スリッカ……」
父親が、娘ではない子を抱きかかえたまま呆然と繰り返し、少女はずっと周りに向かって父を呼び続けていた。
二人にかけられる言葉は、アルルになかった。
悔しさ、無念さ、無力さ。恨みに似た気持ちさえ湧き上がってくる。
「アルル?」
シャツの襟ぐりからヨゾラが見上げてきていた。
……まだ。
まだだ。まだ、出来ることはあるはずだ。力があるんだ。でなければ何のための魔法だ。
人捜しは生き残ってから、と
「ヨゾラ」
「ん?」
「さっきのあれ、もう一度できるか?」
この黒猫は「またがんばる」と言った。何をしたのか、何ができたのか、今度は自覚しているのだ。
「あれ?」
「もう一度がんばってくれないか?」
アルルがそう言うと、ヨゾラは少し目を閉じて口をむぐむぐとさせ、にっと笑って見せた。
「いいよ、がんばるよ」
聞いてアルルは、猫の背をとんとんと叩いた。
まずは、さっき聞いた避難場所とやらにこの二人を送り届ける。そうしたら、また飛び回る。塩か、体力か、魔力か、どれかが尽きるその時まで。
負けるもんか、負けるもんかよ。
かもめの止まり木がガザミ
「なにあれ」
シャツから這い出てヨゾラが声をあげた。通りを挟む石造りの二つの建物の間に、白く密な網が、さながら巨大な
その網の上から身を乗り出す二つの人影がある。
「おおーい! そこのあんた! ええっと!」
「アルルくん! 無事ね!?」
シェマと、もう一人の臨時雇、ハマハッキ・オラヴィがそこにいた。
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