大きくて哀れなものたち
第152歩: 釣果
釣り糸を川や湖に垂らすとき、多少なりとも「掛かれ」と思う。それはアルルも例外ではない。
ただし、釣りたい魚が自分や仲間を捕食しうる、そういう釣りには今まで縁がなかった。
アンケリアスは、おそらく──
おそらく、
おそらく、大砲の衝撃を何らかの方法で逃がした。
おそらく、内側は他の生き物とさほど変わらない。
おそらく、目の間に脳がある。
おそらく、アルルの魔力にそそられた。
すべて推測だ。
自分の体を通った魔力は「不思議なものたち」の食欲をそそるとヨゾラから聞いた。使い魔たちも同意していたし「あの魔力は元気になる」と言って、実際に怪我の治った猫の言うことだ。疑うつもりもない
ただ、広い湾に潜む生き物を即座に呼び寄せるほど強烈かと問われれば、そんな事はないだろうと思ったし、実際、未だに
後部甲板の左、
「糸」の先には小舟。小舟の上には火薬と銃砲弾を詰め込んだ革袋。遠目では見づらいが、「糸」の先からはそれなりの魔力を出し続けている。
舟までの距離はおよそ四百
待つこと、三日目である。
「糸」を張ったまま食事をし、用を足すという得難い経験は積めた。今後使う予感はさっぱりだけれど、いい練習だということにしよう。
そう思うのも何度目かわからない。
「ヒマだね」
ヨゾラめ。
しばらくぶりに戻ってきたらそれか。
「あんまりそういうこと言うなよ」
往還船の人員には聞かれたくなかった。特に後部甲板には上級水夫や士官がいる。少なくとも自分だけは、暇を持て余していると思われたくない。
アルル以外は、どうやら持て余している。暇を。
初日こそ緊張感があったが、ずっと張り詰めていられる訳はない。
半舷休息中の水夫が見物にやってくる事もあったし、船長が通りかかる事もあった。
あんた、前にもこの船に乗ったことあるよな?
そうやって話しかけて来た者が大半だ。
前回乗った時は散々に怒られたので、アルルはあまり思い出したくない。ただ怒った当人である船長は、どうも知らぬ振りをしている節があった。
とある青年水夫は半島東側の沿岸育ちで、細々と塩田を営む故郷の村を心配していた。
壮年の水夫は南半島の産まれで、陸に残る家族の話を延々とした。
まだ幼さの残る少年水夫は、アンケリアスが人魚も喰うのか聞いてきた。よく知らないが可能性はあると答えたら、絶対に「ぶっ殺」してくれと頼まれた。
見張り台にいた南部系の水夫はどこの出身なのかを訊いてきて、西部産まれと答えたら驚かれた。そのあとは、南部女の良さを
早く釣れろ。
戻って来たばかりの話し相手に、声をかける。
「猫の鳴き真似は? ちょっとは上手くなったか?」
昨日からちょくちょく居なくなると思ったら、ケトのところで鳴き声を教えてもらっていたらしい。
「なんだよ、知ってたの? 上手くなってから驚かそうと思ったのに」
緑の瞳をぐるりと回して黒猫がぶう垂れる。
昨日の昼間に、シェマから聞いた話だ。
「ケトが真面目に教えてるわ」と通りすがりの先輩は言ったのだった。
「まさかあの見た目で、猫の鳴き声が下手だなんて思わないじゃない。ちゃんと聞いたらなんだかおかしくて、笑ったら怒られちゃった。両方から」
だから、ふたりを置いて退散してきたのだと続いて、そのまま同じ木箱に腰掛けてくる。
さして大きい箱でもない。触れた肩がじんわりした。
「船乗りの話のネタになっちまうぞ?」
自分だけならともかく、口さがない噂話にシェマが乗せられるのは嫌だった。東部混じりの彼女は、街中でも目立つというのに。
だのに大げさにため息をついて彼女は言う。
「なぁんだ。恥ずかしがっておたおたする所を見てあげようと思ったのに」
「ガキ扱いすんなよな。仕事中だっての」
両の親指で、沖に浮かぶ小舟を指す。
「──そうよね。ごめん」
蜂蜜色の瞳がいじわるに光らなかった。なぜか胸がチクりとして、アルルは話を戻した。
「──俺も、ヨゾラが猫の鳴き真似ヘタなの聞いた時は大笑いしたよ。そしたら『だってあたし猫じゃないもん!』だと」
シェマが真顔で見上げてきて、しばらく間があり、真顔のまま「くっ」と吹き出した。
「くふふふ……あはははははは!」
何かハマったようで、彼女が大笑いする。なんだか久しぶりだ、とアルルは思った。笑いながら、笑う合間を縫うように、シェマが言葉を絞り出す。
「あのね、ケトにね、『猫の鳴き方を教えてよ』って来たの。ヨゾラさんが。ケトも私も何を言い出したんだかわからなくて、『やってみたまえ?』ってケトが言ったあとの『にゃあ』だったの」
光景を想像してアルルも「くっ」となった。
蜂蜜色の瞳が大きく開いた。
「そうなるでしょ? し、真剣だったから、笑うの悪いなと思ったんだけど、もうずーっとおかしくて。ああ……すっきりした」
目尻を拭ってシェマがもういちど、ふぅっと息を吐く。
「──背中の『翼』、大丈夫?」
「ん? ああ、痛みがあるわけじゃないよ。また作り直しだけど、時間さえあれば出来るから」
「どれぐらいかかりそう?」
「こつこつやって三週間かそこらかな。ウ・ルー滞在中には出来上がらないだろう……って、打ち合わせで言ったと思うぞ?」
「そうだった? 実は私、最後の方はよく覚えてなくて」
言いながら、ちらりと後ろを見てシェマが声を落とす。
「……航海士さんが怖い顔してるから、そろそろ行くわ」
それまで触れていた肩が離れ、木箱から立ち上がった魔法使いの娘が、しっぽ髪をゆらして青年を振り返る。
「がんばってね」
アルルは、気持ちが顔に出た。笑った後で笑った事に気づいた。隠さなくていいか、とも思った。
「大物を釣るよ。でっかいうなぎをさ」
「期待してる」
彼女は柔らかく笑うと、去り際に妙な事を言った。
「アルルくん。ヨゾラさんを大事にしてあげてね」
「して……るぞ?」
なぜそんな事を、と思った。
「わかってるわ。わかってるつもり。私が言うのも変だけど、そのまま、大事にしていて。先輩からの忠告」
シェマの口調は静かではあったけれど、瞳には有無を言わせない真剣さがあった。不可解さを胸に残しながらも、アルルは正面から頷いて返した。
そのヨゾラは今。
「にャあ」
ちょっと上手くなっていた。
「驚いただろ?」
得意げに顎を持ち上げる黒猫に、素直に同意する。
木箱に飛び乗り、ヨゾラはまっすぐ猫座りをつくると、一つ一つの言葉をはっきりと言った。
「あいつに勝ったらさ、あたし、食べられるだけ食べるよ」
相棒の言葉には黙って頷いた。それがヨゾラなりのけじめなんだと思えた。
──亀は捕まえて、うなぎは殺すんでしょ?
──りくつは、あたしにもわかるんだ。うなぎが来たから、亀が暴れて、ヒトも死んだよ。あたしだって見た。
──なのに、なんで殺すのはうなぎだけなの? 亀もじゃないの? それか、ほっとけば、そのうち昔みたいにどっちかが勝つんじゃないの? 海が大人しくなれば、それでいいんだろ?
三日前、魔法使いの打ち合わせが終わるなり、そう言われた。
ヒトの為だからだ、と答えた。
ヒトの役に立つから、海竜は殺さないで捕まえる。その邪魔になるから、うなぎを先に殺す。
放っておいても、決着が着くのがいつになるかわからない。明日かもしれないし、百年後かも知れない。
それを待っていたら、たくさんのヒトが困るし、死ぬ。
これはヒトの為の仕事なんだ、と伝えた。
──アルルはつらくないの?
──キミ、不思議なものたち、好きじゃん。
辛いに決まっている。
ただ、村に狼が降りてきて、その手に銃があり、撃ち方を知っているなら、撃たなければならない。
放っておけば人が苦しむというなら、迷ってはいけない。
常人にはない才能を持ち、それを誰かに見いだされ、その才能を形にできるだけの機会や環境を与えられて、ようやく生まれるのが魔法使いだ。
その力はヒトのために使わなきゃいけない。その時アルルはそう答えた。
釣りを始めて三日目のこの日。
釣果がでた。
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