第151歩: 湾を巡る争い

 船長の顔に刻まれた皺がいっそう深く見えるのは、疲れのせいか、それとも、今の状況のせいか。

 そんな事をアルルは思った。

 

 波の山を越え、谷へと滑り、入り組んだあいを抜けて、島の入り江にどうにか船がたどり着いた頃には、薄雲が夕陽を隠して紫色に染まっていた。


 船長室の小窓から見える今の空は、もう暗い。

 カンテラの灯に照らされた皺だらけの仏頂面を、隠しもせずに船長が口を開いた。


「確かに、全員で来て貰えと指示したが──」

 

 海図が置かれた中央の大机を囲んで、頭が十個と脚が三十本ある。椅子を含めれば脚はもっと多い。

 部屋の主と、航海士ひとりと、四人の魔法使いに虫と猫と鳥。

 床から机へ文字通り伸び上がった大猫と、その背をよじ登った黒猫と、机に乗ったかもめと、主人の頭に乗る蜘蛛。


「なるほどこうなるか」


 船長の声もだいぶん枯れて、痛々しく引きっている。

 魔法使いたちは大机の縁にと掴まって、両足を踏みしめていた。

 入り組んだ岬のおかげで波から逃れはしたものの、頭と体がそれについていかない。船は大して揺れていないのに、感覚だけが揺れている。

 これはこれで気持ち悪いな、とアルルは足を床に押し付けた。


 島までの航海は、普段よりも多少長くかかると聞いていた。だが夕暮れまでかかるとは思っていなかったし、船室であちこちぶつけた体も痛い。

 打ち合わせの終盤でハマハッキは船酔いの限界を迎えた。見かねたシェマが「どっしり構える」を発動して分けてやっていたが、船が錨を下ろし始めるや否や、彼女は魔法を解いて座ったまま眠った。

 起こしたのはついさっきだ。


 さすがに、しんどい。


 そんなアルルの、そして恐らく他の魔法使いも抱いているだろう気持ちとは関係なく、船長は様々な懸念のこもった息を吐いた。 

「さて、魔法使い殿。これからどう動いたものかね?」

 誰もが疲労と眠気を背負いながらの、本日二度目の打ち合わせだった。



 ロッキが魔法使いを代表して話す。

「──我々で話した限りでは、ですが、出航直後に現れたあれ、船長が赤目玉と呼んでいたあれは、アンケリアスでまず間違いありません」

 

「南洋の怪物か。名前だけは聞いたことがあるが、他には? ないかね?」


「申し訳ありませんが、手持ちの情報はここまでです。協会へ調べるよう要請はできますが、手紙のやりとりだけで数日、調査にはさらに日数がかかるでしょう。ご存知かとは思いますが、あれは南楼群島なんろうぐんとう以南への航路を断絶させた生き物です。その性質上、資料そのものがほとんどないと考えています」


 ロッキが言葉を重ねるたびに、船長の皺は深くなる。

「とはいえ、打てる手は打たにゃあならんだろう。済まんがよろしく頼みたい」

「わかりました」


 頷くロッキを見て、アルルは残った人たちを思う。非常事態を宣言して通常の業務を切ったとは言っても、魔法使いは二人だけだ。調べ物をする余裕なんてあるのだろうか。

 親父がもう少し詳しく書いてくれてたらな──と思って、打ち消した。

 自分の知識不足を棚に上げて、甘えた事を。


 老船長が腕を組み、椅子にもたれた。

「しかし、アンケリアスだってんなら皮肉なもんだ、やっこさんが南楼群島あたりに出るようになって、連合軍の下っ端は内心で喜んだもんなんだぜ。もういくさに出なくて済むってな」

 灰色の目がどこか遠い所を見ている。

「遭った事があるんですか?」

 思わずアルルは訊いてしまう。


「幸か不幸か、オレも出くわした事はない。『星落ち』で大怪我して病院に入ってた頃に、そういう話を聞いただけだ。正直虚しくもなったが──いや、昔語りの時間じゃねぇな。失礼した」

 腕組みをほどき、船長が大机に身を乗り出す。

「赤目玉に海竜さんが食いついてたんだろう? 至近距離で大砲を食わせもした。それでも奴は生きてると思うね?」

「はい。まだ海が荒れている以上、そう考えるのが妥当です」

「詳しく頼みたい」


「この二百年、海竜は湾を巡ってきました。我々の行ってきた手順はおおかた同じですが、二百年の間に細かな手違いがなかったとは思えません。ですが、今回のように高波を起こし、港を飛び出したという記録もありません」


「だが今回、それが起こったと。そして、赤目玉だか白うなぎだかが現れた」


「ええ。何より、海竜がアンケリアスを追うように現れ、あれに食らいついた事からも、両者になにがしかの関係があるのは明らかです。海が今でも荒れている以上、は生きていて、海竜はいまだに荒ぶっていると考えるのが自然です」


「筋は通るな。しかしまぁ、何だって亀がうなぎにそうまでムキになっとるんだか」


「ナワバリ争いじゃないかな」


 ヨゾラの言葉に、使い魔たちが一斉に頷いた。

 首のない蜘蛛ハニですら、身体を一瞬沈ませて同意を示した。

 

「あっしも、そう考えるのが腑に落ちやすね」

「我が故郷くにであれば戦となろうな」


 オスたちが妙に息巻いて、クービアックは机をパタパタと蹴り、ケトは爪を

がない」

 先回りしたあるじに止められる。


 ロッキが咳払いをして、散らかりかけた場をまとめた。

「──我々は海竜とアンケリアスの争いの、文字通り余波をこうむっていると考えるのが妥当です」

 船長は一言「ううむ」と唸って右目を閉じた。


「先の航海でも赤目玉に出くわしたが、あの時に助かったのも、そのナワバリ争いのお陰って事かも知らん。だが今回は奴らだけの争いじゃあない。こいつは──」

 開いた目が鋭さを増している。


「うなぎと亀との、湾を巡る主導権ナワバリ争いだ」


 船長室のすぐ外で、八回の鐘がなる。四刻ごとの八点はってんしょう。この船で聞くのは二回目だ。

 船長が航海士に、人数分の食事を持ってくるように指示を出す。

 航海士を見送り、船長が問いかける。


「で単刀直入に訊くが、オレたち人に勝ち目はあるかね?」


 アルルはヨゾラを見た。ケトの背からヨゾラも見てきた。

 完全に納得したようには見えないが、しぶしぶでも付いて来てもらうしかない。


 アンケリアスをどうやって仕留めるか。

 この話は、アルルがすることになっていた。


「策はあります」

 口を開く。白うなぎを殺すための、策を告げる。


「内側から爆破します」

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