第62歩: 百十七と半分ちょっと

 南半島からの数日間で、いくつかわかった事がある。

 たとえば


「アルル・ペブルビク=ララカウァラ」

 これがアルルの名前で、

「西部連合北半島ユリエスカ郡イビエシュ市ララカウァラ」

 これがララカウァラのちゃんとした名前なんだそうだ。

 

 長いなぁ、とヨゾラは思った。

 エレスク・ルーから河をくだった時の事だ。


「そのなっがいの、使うの?」

 問いかけると、魔法使いの登録証をくるくると丸めながらアルルが答えてくれた。

「たまに使うよ。例えば、船に乗る時とかな」

なら今も乗ってるけど、使わなかったじゃん」

 すると、後ろの方から別の声が教えてくれる。

「国を越える船すね、アルルさんが言ってるのは」

 ギデだ。舟屋の息子で、魔法使いの見習い。船尾に立ち、長い竿で舟を漕いでいる。シャツも脱いで肌着からたくましい腕が覗いていた。

 もう一人、舳先あたりに荷役の男がいるのだが、そちらは「河の子カエルみたいの」と一緒にうたた寝の最中だ。


「国って……越えられるんだ?」

「ちょっと面倒だけど、越えられる。エレスク・ルーのある南半島と、ララカウァラのある北半島、それから西高地はそれぞれ別の国だよ。昔はもっと細かく分かれてて、たとえばユリエスカ郡だけで一つの国だったらしい」

「へぇぇぇ……」


 国というのは、どこまで行っても出られないほど大きいと思っていた。

 登録証ひとつ見せてもらうだけで、いろいろと面白い。そこには、アルルの名前や出身の他にもこんな事が書いてあった。


 性別 男性

 命名日 七八三年、七月アフレの十日


 容姿

 黒髪黒目

 肌は浅黒く南部系の顔立ち、鼻は低い

 上背は二パソデード


 略歴

 七九八年 - 七九九年、クロサァリ学院在籍

 八〇四年、八月セステレスの二日、「翼」の魔法にて登録承認


 備考 フィジコ

 


 「パソデード」は長さをはかる単位。もともとは一歩の長さでパソ、親指の太さでデードと言っていたらしい。

 アルルが言うには

「四十デードで一パソ

 ギデが言うには

「三番橋がだいたい二五○パソす」

 なので

「じゃ、花火見たあの橋はアルルが百十七と半分ちょっとか」

 ヨゾラの呟きにアルルとギデは動きを止めた。そして、急に難しい顔になると何かぶつぶつ言い出した。

 船底に指でなにか書くようにしているアルルと、宙空を指で弾くようにしているギデ。

 しばらくしてから

「あってる……!」

「あってっす!」

 と二人同時にヨゾラを凝視した。

 妙な居心地の悪さにヨゾラは尻尾がしてくる。

「……なにさ?」

「びっくりだよ!」

 アルルの大きな声に、今度はきょとんとなる。

「お前計算できたのか? それも滅茶苦茶に速いし……。誰に教わったんだ?」

 舟に積まれた荷に寄りかかって、アルルが訊いてくる。その内容に今度はヨゾラが驚いた。

「教わらないよ? みんな、はじめっからできるんじゃないの?」

「できるかよ」

「できねっす」

 アルルとギデがそれぞれ言った。

「俺、計算の練習がイヤで泣きながら親父にやらされたのに」

「おれは意外と楽しかったすけど」

 好みは別れるらしかった。



「アルルさん、やっぱりヨゾラさん変わってっすね。ヨゾラさんみたいのって、他にいるんすか?」

 竿を河底に差し込みながらギデが言う。

 先にヨゾラが答えた。

「いるいる。きっといる」

 ヨゾラを無視してアルルが答えた。

「俺も聞いた事はないんだ。戻ったら親父にでも訊いてみるよ」

 ギデが、河底をぐいっと押し込む。舟が、ぐん、と加速する。

「親父さん、に詳しいんすか? そういや先生と知り合いだそうすけど」

 竿を引き抜きながら、ギデは特に疲れた様子も見せない。舟に乗り込んだ時と比べて、河幅は随分と広くなっていた。

「詳しいというか、懐かれてる。ドゥトーさんとは、若い頃一緒に働いた昔馴染みだって言ってたよ」

 とは「不思議なものたち」の事だ。目に見えたり、見えなかったりする、普通とは違う何か。ヨゾラも、そのたちの一つと魔法使いは言うが。

 キミたちだって不思議じゃないか。

 ヨゾラはそう思うのだ。


「ギデ、そろそろ交代する」

 注意深く船尾へアルルが歩いていく。

「うす。じゃ、頼むす」

 竿を引き上げ、ギデが場所を空けた。アルルは一息吸って碧く光る「糸」を二本、船体の角へ振り出した。


 ぐん。


 魔法フィジコの力場に押されて、舟が再び加速する。

「この辺りは浅瀬も多いすから。あんまり押し過ぎないで下さいすね」

 水をあおりながらの、ギデの忠告だ。

「はいよ。舵とりの指示よろしく」

 正面に向き直ってアルルが言う。

 その時、舳先からグァワワワと蛙の声がした。ヨゾラにはあまり良い思い出のない声、そしてアルルには聞こえない声。河の子だ。

「あー、ひと雨来るすわ」

 そう言ってギデは器用に舳先へと歩いて行き、うたた寝男の肩を叩いた。

「雨。起きろす」


 そのあと。あめたくが終わった頃に細かな雨が落ちてきた。

 濡れるのが嫌で、ヨゾラは船尾側のひしゃげた小屋に潜り込む。湿った木の匂いがこもって、空気が甘く感じられた。

 アルルはまだ魔法で舟を押している。自前の雨除け布をかぶって、ひしゃげた小屋の屋根の上に座っているはずだ。

 つまり、板一枚はさんで頭の上にいることになる。いるはずなのに、見上げても見えない。古ぼけた、薄暗い板の並びが見えるだけだ。それがなんだか可笑おかしく思えてきた。

「アルルー!」

 呼びかけてみる。

 声が反響して音が巡った。

 屋根越しに、どうしたよ? とくぐもった声が聞こえる。

 やっぱりいるんだ!

 小屋から駆け出て積み荷を登ると、布をかぶったアルルがいた。

「お前、濡れるの嫌いなんじゃなかったか?」

 その言い方もなんだか可笑しかった。ヨゾラはカラカラ笑って、また小屋に駆け込んだ。

 もう一度同じ事をして、小屋の中でひとしきり笑った。

 たばたば、さらさら、ほとほと鳴る雨音に混じって、ギデの声が聞こえてきた。

 おれの兄貴の子が今あんな感じす。壁に隠れて、顔出しては笑ってっす。あれって楽しいんすかね、と。

「楽しいよ!」

 小屋の中から答えた。

 何が楽しいんだよ? と外からアルルの声がする。

「いること!」

 と返すと「はあ」だか「へえ」だか、そんな声が聞こえてきたのも、可笑しかった。


 雨は思ったよりも早くやんだ。

 河口から谷にそって上流へと移っていく雨を「渡り雨」と呼ぶらしい。

「じゃ、今頃はピファちゃんとこが雨ってこと?」

「今かどうかはわかんないすけど、そのうち降るすよ」

 ギデが髪の毛の水を手でバサバサと払いながら応える。

 濡れてつやつやとする山肌ごしに空を見て、空ってひとつじゃないのか、とヨゾラは思った。



 夕暮れも近づき、他の舟も増え始め、山がちだった視界が急にひらけたと思ったら、町だった。河の両岸に背の低い家々が立ち並び、後ろへと流れていく。

 河を渡る大きな石橋の上を、人が大勢行き交う。舟が橋をくぐる時、橋の上の人混みを想像してヨゾラはまた可笑しくなった。

 河口近くの大きな町、オーメの荷さばき場。

 ギデとはここでお別れだ。



 舟も荷車もたくさん集まっていて、逞しい男たちが大きな声を出しながら、きびきびと動き回る。

 舟で居眠りをしていた男の人も、人が変わったみたいに素早く動き回っている。ここから荷物を海船うみぶねに載せ替えたり、陸路で別の街へ運んで行ったりするらしい。

「ありがとう。助かったよ」

 舟をおりて、アルルが右手を差し出した。

「こちらこそ、世話になったす」

 アルルの右手をギデが握り返す。アルルがちょっと顔をしかめたのは、ギデの握る力が強かったからか。 

 ヨゾラが「げんきでね」と言ったら「ぅす。ヨゾラさんも」と返された。


 なるほど、そういうやり方もあるのか。


 歩き出して一度振り向くと、ギデも喧騒の中で荷の受け渡しをしたり、町側の役人と話したりしていて、こちらを見ることはもうなかった。

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