第95歩: しらないしらない
「クァタさん、その人があれかい? 臨時の」
部屋の真ん中を占拠する六台の机に一人、痩せ気味の男のヒトが「さん」を強調して言った。
ペブルさんと同じ年ぐらいかな、とヨゾラは白髪を見て思う。その男はとがった鼻の左右に円い輪っか──
「ええ、帰りに偶然会いました。アルルさんです。アルルさん、こちらは──」
「あたしゃマヌー・カールトだよ。算盤その他もろもろ雑用の担当さ、よろしくな」
眼鏡の人が立ち上がり、机に左手をついて右手を差し出してくる。アルルがその右手を握り返した。
「アルル・ペブルビク=ララカウァラ。アルルと呼んで下さい」
「ヨゾラだよ、よろしく」
鞄の上から声をかけると、白髪の人は相貌を崩して右手を出してきた。ちょっと戸惑って、右の前足を差し出す。
届かない。
アルルが身をかがめ、体をひねってくれた。
前足をつままれ、肉球が押されて爪がでた。思わず目の間にしわが寄る。
「それでクァタちゃん、やっぱり空振りかい?」
傍らでしっぽ髪が、持ち主のため息とともにやれやれと揺れた。名前の呼び方が変わらないヒトは、エカおばさんだけじゃないらしい。
「そうでも。子どものかんしゃくはともかく、エセキシミがたくさん住み着いてたから虫除け焚いておいたわ」
「はいはい。まぁそうじゃないかと思いましたよあたしゃあ」
マヌーが椅子に戻る。
「支部長は中庭ですか?」
「でしょうな。少なくとも中には居ますよ。んふふふふ」
しっぽ髪がまたやれやれ揺れた。
「エセキシミって?」
ヨゾラがすぐそこの黒い頭に訊くと
「ギシギシいう虫」
と教えてくれた。船にいたあれだろうか。
じむしつという名前のこの大きな部屋は、建物の角にあって、右に折れ曲がっていた。同じ間隔で並ぶ窓から陽が赤く差し込んで、暖かいけれどまぶしい。
「さっきのマヌーさん、適当なこと言うからあんまり気にしないでね。荷物と杖、ここに置いといていいわよ」
とある机の前、シェマが肩掛け鞄をおろして机の下にそっと置いた。
言われるがままにアルルも荷を下ろすと、スコップが石床で音を立てた。ヨゾラも降りて、久しぶりに四つ足で立つ。ひやっこい磨き石の床。
「他の人たちはいないんだな」
「魔法使いは外に出てる事が多いの。研究発表会に出る人はクロサァリへ出発しちゃったしね。いつもいるのは受け付けの二人に、マヌーさんとアンニさん、あとは支部長ぐらいよ」
ヨゾラの頭上で魔法使いたちが話をしている。
「アンニさん?」
アルルの問いに、シェマが大きな声をだした。
「アンニさーん!」
奥の薄暗い戸口から、今度はおばあさんが顔を出した。もしゃもしゃの長い白髪を頭の上でぐるぐる巻きにしたヒトが、何も言わずに耳に手を当てた。
「臨時雇の!」
シェマの声に「わかったわかった」と言わんばかりに手をひらひらさせ、おばあさんは引っ込んだ。
しっぽ髪の魔法使いが振り返る。
「今のがアンニさん」
「おう……」
「資料とか、素材とか、あとは魔法陣も管理してるわ。無愛想だし無口だけど、こわい人じゃないから安心して。無口な人なら慣れてるでしょ? ほら、きみと同じ部屋だった西高地の」
「ヌ・ホ? あいつは決して無口じゃなかったぞ」
「そうだった? 私、彼の声聞いたことないわよ?」
「使い魔の鳥がよく喋るんだよ、あいつの代わりに」
なんの話だろう、とヨゾラは思う。
「ヌホって誰?」
「あとでな」
なんだよ、いま教えろよ。
知らない人の話をしながら、魔法使いたちの足が動き出す。青裾の細い足首に、頑丈な革のブーツが続く。
「で、あいつは自分で喋らずに、鳥の言うことに頷いたり首振ったりするんだ」
「私、それも見た事ないけど」
「女の子の前では黙らせるんだよ、鳥を。余計な事言うからなアレ」
「なにそれ? がっかり。ヌ・ホって寡黙でいいよねって女子学生の間で評判だったのよ?」
「評判良かったのも知ってる。俺、恋文渡してくれって頼まれた事あるよ。二度」
「なにそれ!」
シェマが笑う。アルルが楽しそうだ。
二人が廊下にでて、話し声が遠のく。
ヨゾラはついて行かない。
──しらない。
あたしのしらないアルルだ。
あんなアルルはしらない。
──しらない。しらないしらない。
この気持ちは、しらない。
知らずのうちに爪が床を引っ掻いて、かしゅっ、と音が立つ。その時だ。
「石床で爪研ぎは勧めぬな」
背後の声にヨゾラは文字通り飛び上がった。
身を低く着地し、牙を剥き、爪を立て、混乱した瞳で声の主に向き合う。
こんもりとした黒い塊。
こんなやつ、机の下にいなかった。
ヨゾラの三倍ほど大きく、ヨゾラと同じ形をした生き物は金色の瞳を光らせて
「……
しゃべった。
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