ヨゾラとひとつの空ゆけば
帆多 丁
はじまり。
第1歩: 昔のこと
夜に、山が崩れた。谷の両側から崩れた。
まるで意志を持つかのように岩が、石が、土が谷底へと流れていく。
谷には川と、街道と、線路が走っていて、線路には列車がとまっていた。
昔、国がひとつ消えた日の事である。
その日は朝からよく晴れた日で、アパレヂ山脈に立てられた鉄塔も輝いて見えた。鉄塔と鉄塔をつなぐアラモント鋼の太いワイヤーはわずかに碧い光を帯びて、今日も大量の魔力が流れている事を示していた。
高速鉄道は陽の光で銀色に輝き、長く続いた田園地帯を抜けて谷へと走る。谷を抜け、一刻もすれば首都。
「夜だったらもっと良かったんだけどなぁ」
最後尾の客車、最後尾の席で、男は窓側に座る妻に話しかけた。
「夜なら、魔力線が光ってるのが見えてきれいなんだ」
妻の膝の上で窓に張り付き外を見る、幼い息子の頭を見やる。
「でも夜だとこの子、寝るかグズるかよ?」
妻は言い、幼い息子の頭をなでた。子は、相変わらず窓に張り付いたままだ。
「それもそうか」
夫も幼子の細い髪をくしゃくしゃとなで、そして妻の黒髪を指で
「あら、どうしたの?」
妻が照れ隠しに笑う。小麦色の肌に黒目がちな瞳が輝く。首元に丸い飾りのペンダントが揺れる。
夫は、ごまかすような笑顔を作って言った。
「いや、いつもお疲れ様だなって」
「そう思うならたまには替わって」
「ごめん。でも、今日はちゃんと秘密兵器も持ってきたからさ」
「おねんねの魔法陣のこと? できれば、あんまり子どもに魔法はかけたくないんだけどねぇ」
「大丈夫だってば」
「自然に寝かしつけるのがいいって、私のおばあちゃんも言ってたもの」
「わかったわかった。次にぐずったら、なるべく使わずに頑張るよ」
いよいよ谷の入り口が見えてきて、列車は緩やかに減速していく。首都へと向かう列車はほぼ満席だ。
会話が途切れて、夫は思い出したように足元の大きな布包みを開いた。真新しい革の匂い。包みの中身は背負い鞄だ。鞄を開けると中身は空で、底が見える。その中に手を入れ、底布のファスナーをぐるっと開ける。
二重底なのだ。
鞄の見た目よりも肘一本分ほど中は深く、その底には水気を拭き取った一尾の魚がぽつんと置いてあった。
魚の目は透き通り、まるで釣り上げたばかりのように瑞々しい。
「そんなに何度も確認しなくても。大丈夫なんでしょう?」
妻はすこし呆れたように言い、続けた。
「それに、なにもお魚じゃなくっても」
緩やかな減速は続いている。
「こういうのは、インパクトが大事なんだよ。陸上で生きられない魚がなぜ!? っていうさ」
なぜ!? の所で大げさに身振りを交える夫。
「はいはい」
と苦笑いする妻。夫が「さぁ、ご覧ください!」と鞄から魚を取り出す光景は、あんまり格好良いとは思えなかった。
列車はまだ減速を続けている。
子が「まんまんまー」と声を発した。
両親はそちらを見て、窓の外がみえて、列車がほとんど止まりそうなのに気がついた。
「――なにかあったのかしら?」
他の乗客にも窓の外をみたり、時計をみたり、連れ合い同士で何があったのか推測したりしている者がいた。夫も窓側へ身を乗り出して窓に張り付いた。
やだ、こんなとこまでそっくりだわ、と窓に張り付く夫と子を見て妻は思う。
妻の思いなどつゆ知らず、夫は外の様子に目を走らせる。
線路にそって流れる小川と、小川沿いの菜の花と、その向こうの緑の急斜面に岩肌。斜面の上の鉄塔と、魔力線と青空。
青空を背景に、魔力線が火花を飛ばして切れた。
ぱぱぱぱぱん、と連発花火のように乾いた音が聞こえて
車内がざわり、騒がしくなる。
「何があったの?」
不安げな妻の問いかけ。
「魔力線が――切れた」
答えた夫の顔は青ざめていた。
「嘘、それってまずいんじゃない?」
各地から首都へ魔力を送る主要線だ。首都の混乱は必至だった。
「とてもまずいね。お披露目どころじゃなさそうだ。おじいちゃんたち、無事だといいけど」
夫が下唇を噛んだ。新魔法のお披露目と、孫の顔見せ、その両方をかねての上京だったのだが。
車内もそわそわと落ち着かない。せめて「ただいま確認中」の放送ぐらいありそうなものなのに。
妻は外を見ていた子を引き寄せたが、むずかったのでやめにした。おとなしくしていてくれた方がいい。
しばらく待ってみるが、なにも起こらない。後ろのドアが空いて、車掌が入ってきた。
乗客は口々に状況をたずねた。なかば怒鳴りつけるような人もいて、息子が身をすくめた。
「大丈夫よー、だいじょうぶ」
妻が息子を抱っこしてあやす。
「運転士と連絡がつきませんので、これより確認してまいります。申し訳ありませんが、今しばらくお待ちください」
多少青ざめながらも、大きくはっきりした声で車掌が言い、きびきびと前方へと移動していく。そして座席区画のドアを開け、貫通路から車内に一礼して閉めた。
「なんだか長くなりそう。お手洗い大丈夫?」
夫が訊いた。
一番近いのは車掌が出て行ったあたり。高速列車を走らせるほど魔法が発達しても、トイレに行かなくて済む魔法はないのだ。
「まだ大丈夫だけど、行っておこうかな」
それにしても、一つ前の車両がずいぶん騒がしい、と妻が思った時、
ばん!
と車両の前方から大きな音が聞こえた。車内がびくっと身をすくめた。
なにかがドアにぶつかった?
誰もがドアを見守る中、先ほど車掌を怒鳴りつけた男――白髪の、北西部生まれっぽい男性――がさっさと行って、開けた。
誰もいなかった。靴と服だけがそこにあった。
「何でぇ?」
と男が呟いたとき、その体が碧く光りはじめた。
男の連れ合いの女性が甲高い悲鳴をあげた。発光している男性は、なぜ悲鳴があがったかしばらくわからないようだった。
誰かが「あんた光ってるぞ! 魔法か!?」と指摘した。気味のわるさに耐えかねて、二列目に座っていた若い男女が通路を後ろまで小走りで来た。悲鳴を上げた女性は男性の所まで行き、どうして良いかわからずオロオロしている。光る男もようやく事態に気づいて、両手を見ながら素っ頓狂な声を上げた。
「何だこれぁ!? おい何だこれ!?」
それを最期に男は光ごと、すっ、と消えて、服だけが落ちた。
乗客が状況を理解するより早く、連れ合いの女性が、最前列に座っていた四人が、発光を始めた。
弾かれたように乗客は後部へ殺到した。
夫婦の子が泣き出した。北西部の女性は助けを求め、そして突き飛ばされた。突き飛ばした人も発光を始めた。先ほどの若い男女が邪魔で、夫婦は通路に出るのを躊躇した。直後に人の塊が押し寄せ、若い男女が扉と人に挟まれた。男の方が必死に「やめろ! 開けられない、やめろ!」と怒鳴っている。また一人発光を始めた。先ほど突き飛ばされた女性も、突き飛ばした人ももういない。
窓を破れ! と誰かが叫んだ。妻が泣く子を守るように抱きかかえた。夫は窓を力いっぱい蹴りつけた。しかし、高速鉄道の窓はそう簡単に割れない。割るような道具は、ない。
お母さん! お母さん! という誰かの声と、どけよ! と言うだれかの声と、魔法使いはいないのか! という誰かの声と、魔力がない! という誰かの声。そして悲鳴と助けを乞う声。車内の半分はいなくなり、残りのうち半数が発光していた。前の車両から脱出したのか、窓の外を走る人が夫の側から見えた。走りながらその人も消えた。
外もダメか!
夫の背に通路側から人の圧力がかかる。座席に手をかけてどうにか踏ん張ると、足元の鞄が目に入った。夫は反射的に鞄をひっつかみ、底に手を突っ込むと中の魚を放り投げた。
「ここに!」
魚がどこかの床に落ちてびちびちと跳ねる。
「イサリ!」
夫は妻の名を呼び、その肩を揺すった。
「ここなら!」
座席の上で鞄の口を大きく広げる。
顔を上げ、イサリは理解した。
夫が、クロソラが作ったこの鞄なら、あるいは。
イサリは胸にしがみつく息子を無理やり引き剥がした。幼子は全力で喚いた。火でもついたように泣き、身をよじり、あちこちを掴んで抵抗する息子を、力ずくで鞄の底の底まで押し込んでいく。小さな足が底についた。小さな手がイサリの指を必死に掴んでいる。涙が雨のように息子の上に落ちていった。息子の手を離せない。二重底を閉じることができない。
「イサリ」
クロソラは服のポケットから、折り畳まれた白いハンカチをだした。
件の"秘密兵器"。
開くと内側に、円と複雑な紋様が書き込まれている。イサリはうなずいた。
魔力が無くても、魔法陣なら。
紋様を暴れる子の胸にあてた。魔法が発動した。幼子が、かくんと眠りに落ちる。
夫婦が、何度も見てきた息子の仕草だった。その様子を「魔力切れ」と笑った事もあった。いつも、幸せや、安堵とともに見てきた仕草だった。
イサリが、息子を鞄の底に横たえる。息子の指を手から外すたびに、ごめんなさい、と言葉が漏れた。
外に出たのか、それとも消えたのか、いつの間にか二人の他に人はいなくなっていた。
クロソラは妻の首からペンダントを外し、自分の上着のポケットからも同じ物を取り出して、息子の隣に添えた。
その手が光り始めていた。碧く光る指で二重底のファスナーに手をかけた。
息子の寝顔が目に入る。
歯を食いしばった。
一気にファスナーを閉じた。
そして鞄の口紐を力いっぱい絞ると、その場にへたり込んで声を上げて泣いた。
イサリが、発光を始めたイサリが、夫と鞄をまとめて、覆い被さるように抱きしめた。
「大好き、愛してる」
「げ、元気で、元気で!」
息子への祈りが空気をふるわせた時、二人の体はもうなかった。
人のいない車内で、魚だけがべちっ、べちっ、と力なく尾を鳴らしていたが、その魚もやがて息絶えた。
夜に、山が崩れた。谷の両側から崩れた。
まるで意志を持つかのように岩が、石が、土が谷底へと流れていく。
谷には川と、街道と、線路が走っていて、線路には誰もいない列車がとまっていた。
その日消えた国の名は、シュダマヒカと言った。
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