ひとつめ。星の明かりに滲む黒、たき火の明かりに滲む黒
流星群の夜に
第2歩: 河沿いにて
しゃべる猫なんてそう珍しくもないけど。
ぼんやりした頭で、魔法使いの青年はそう思った。
また、あの夢を見た気がする。雨の中、暗い穴へ押し込められる夢。落とされまいと必死に掴まっているうちに目が覚める、おかしな夢。
近くで河の流れる音がする。
視界には満点の星。その星空が黒く、猫の形に切り取られて見えたのは何のことはない。黒猫が覗き込んでいたからだ。
その猫が名前をどうとか言っている。
ウ・ルーで泊まった宿の娘と声が似ているが、その娘が猫にでもなったか?
なんだか体も重いし、服が濡れているのか、右の脇腹がベタッとして気持ちが悪い。目は開いているはずなのに、どうにも遠近感がつかめない。
なんで俺はこんなところに寝ているのか、荷物はどこにやったのか、ここはどこだったか、何をしていたのか。うっかり酒でも飲んだのだったか。
思い出そうとするが、胸の上の猫が
「……うるさいなぁ」
うめき声をだして、口の中の違和感に気づいた。
変な味もする。寝ている間に馬に小便でも引っ掛けられたのだろうか。
まったく冗談じゃない。クサい。冗談じゃない。まったく、とにかく、水、水。河だ。
青年はじたばたと身を起こした。手足にいまいち現実感がない。猫はするっと胸から飛び降りて、
「起きた!」
と元気よく言った。
あーあー、お前は元気でなによりだよ、と青年は水音の方へヨロヨロと歩いていく。
「起きてたんなら返事しろよなー!」
後ろからそう聞こえたので、口の中だけで「起きたよ」と言ってやった。口を開くと
やっぱり酒でも飲んだのかな、と青年は思った。とたんに河原の石に足をとられた。
ばちゃん。
「いって……つめて……」
転んだのは河の水縁。
そのまま水をすすり、口をゆすいで吐き出す事十数回。草むらに胃液を吐き出すこと一回。起き上がって顔を乱暴に洗うこと数回。
泥臭かったし口の中もザリザリするが、クサいよりは何倍もマシだ。頭も幾分かすっきりした。立ち上がって周りを見回す。唾をベッと吐く。風が吹く。青年は盛大にくしゃみをした。
ええとだ。どこだったっけな、ここは?
後ろには、申し訳程度に盛り上がった堤防の影と、その向こうには森の影。
そうだ、あの上で野営の準備をしていた。荷物に泥棒除けをかけて、水を汲もうと思って……思い出せない。
堤防から転げ落ちて頭でも打ったのだろうか。河の水がここまできていたら、命はなかっただろう。
なんにせよ
あれ、こんな話を昨日誰かにしたな。誰だっけ?
その時、突然足元で声がした。
「ねぇ」
おどろいて青年は飛び退いた。
そうだ、こいつだ。この猫に話したんだ。
春先の川はよく増水するから気をつけろ。
その時、こいつはなんと答えたか?
「にゃー」だ。文字通りの「にゃー」だった。
アホか、と青年は思った。喋れるくせに、なにが「にゃー」だ。
またくしゃみが出た。
「もしもーし、聞こえてるよね?」
また猫が話しかけてくる。改めてよく聞けば、宿の娘とは声も口調も全然違う。
「あー、聞こえてはいる」
だいたいなんだよ「もしもし」って。
「聞こえてるけど、おしゃべりより先に、火にあたっていいかな」
寒さに両腕で体を抱きすくめると、わき腹のあたりがベたりと気持ち悪かった。
「私に名前をつけてください」
と平坦に猫は言う。
「いいけど、俺に何があったか、先に教えてくれると嬉しいね」
震えながら青年はこたえる。
「ご質問には、名前を頂いたあとでなければ回答いたしかねます」
と、再び平坦に猫は言う。
「なんなんだその決まり」とぼやくと、青年は集めてきた木を適当に折って焚き付けをつくり、地べたに座り込んだ。
月のない暗闇で、猫がいろいろ見つけてくれたのはありがたかった。明かりを灯す必要もなかった。
水汲み用の両手鍋だけが河原に転がっていたが、鞄も杖もコートもスコップも全部、そのまま堤防の上、街道脇の林にあった。
やれやれだ、とため息がでてくる。
もう一度、深呼吸ひとつ。
吐く息と共に、意識を底の方へおろしていく。体を空気に溶かすように感覚を広げると、いつものようにそれは「
魔力。
それを、呼吸と共に吸い込む。
皮膚を通って、体のあらゆるところから光る霞が流れ込んでくる。体の芯にもわりとした
振った指先から三つ、テントウムシぐらいの碧い球が「糸」を引いて飛び、焚き付けの中に落ちた。
「わ、それフィジコだね!」
突然に猫が声をあげた。
「知ってるのかお前」
驚きだった。フィジコを扱う魔法使いなんて、青年も他に会った事がないのだ。
なんだろうなこの黒猫? と改めて思う。会話ができている以上、
ひとつ問いかけてみた。
「お前はどこの王家の猫だ?」
「ご質問には、名前を頂いたあとでなければ回答いたしかねます」
そうきたか。
青年は焚き付けの上から太い薪を重ね、もう一呼吸した。今はとにかく火をおこそう。
吸い込んだ魔力を「糸」に流し込む。イメージは熱。赤熱した鉄。
じゅっ、と音を立てて薪の水気が飛ぶ。
「熱っ!」
「あっち!」
黒猫と青年は同時に声を上げ、慌てて後ずさる。
「キミ、魔法下手なの?」
「うるさい。調子が良すぎただけだ」
事実だった。熱かったのは、出すぎた魔法のせいだ。すでに焚き付けからは火が上がり、太い
青年は熾火に息を吹きかける。
頭も冴えてきているし、体も動く。
酒を飲んだわけじゃないな。
「もういい?」
焚き火の向こうで黒猫は口をひらいた。
「あぁ、いいよ」
シャツを替え、ジャケットとコートを着込んで青年は答えた。脱いだシャツも、今着たジャケットも、血と泥でひどい有り様だった。前後で二つも穴が開いている。
ジャケットは裏地を剥がせばなんとかなりそうだが、シャツはもうだめだ。
そのまま火に放り込んだ。
黒猫は妙に姿勢のいい猫座りで、改めて要求を告げてきた。
「まずは、あたしに名前をつけてください」
「その前に、なんで俺が血まみれだったのか」
「ご質問には、名前を頂いたあとでなければ」
「わかったわかった」
あくまで名前が先なのか、ヘンなやつだ。
青年は靴を脱ぎ、脚も腕もコートの前も開いて焚き火を抱えるようにしていた。黒猫は立てた尻尾をゆっくり左右に振っている。
訊きたいことはいくつもある。着替えた時に血を拭って確認したが、予想に反して脇腹に傷はない。傷がないのに、体に血が付く理由がわからない。怪我をして、寝ている間に治った、の方がまだわかりやすい。
この猫に怪我を治す力でもあるのだろうか。聞いたことはないが「不思議なものたち」の中にそういうものがいても不思議はない。
だが、この猫は魔力的にすっからかんだ。青年の知る「不思議なものたち」とは違う。それに、なんでこうも名前を欲しがるのか。名前を欲しがるのは、支配されたがるのと同じ意味だろうに。
青年が考えるそばから
「はーやーくー」
と猫は言う。とにかくこの猫に名前をつけなければならない、と青年は奇妙な義務感さえ覚え始めていた。
わかった。名前ぐらいつけてやる。そのかわり俺の疑問にも答えてもらうぞ。
期待のこもった目で自分を見上げる黒猫に、青年は口を開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます