第91歩: 風のある月曜日
ぽこぽこと綿の塊のような雲が北へ向けてひっきりなしに流れていく。それをずっと見ていて、流れているのは雲ではなくて、実はあたしたちの方なんじゃないか、なんて事をヨゾラは考えた。
「ああなるのか」
「ああなんだなぁ」
「ああなるのですね」
頭上から三つの声。
大きな鞄を背負った魔法使い。
太い杖に寄って立つ白髪の巨人。
巨人の肩に貼りつく緑の蛙。
林の道から中通りに出て、魔法使いと使い魔が南の森を眺めている。
森のアカマツの上に乗っかった、白いふわふわの玉。
「ありゃ、皆さん総出でおはようさん。あの白玉、なんかあるんかね?」
畑へ向かうハッカネンさん。
「おお、おはようハッカネンさん。いやね、今日辺り飛ぶんじゃねぇかと思ってんですよ」
「はぁ、たしかにタンポポみてぇだと思ってましたが、やっぱり飛ぶんですかね。ありゃなんなんです?」
「オレも初めて見ますがね、まぁ種だって言ってましたわ」
「言ってた? 誰がです?」
「森の不思議さんですよ」
これが六回目のやりとりだ。分校にむかう子どもの一団が一番厄介だった。
ヒゲを掴んだあいつの事は忘れない。
ララカウァラは大きく分けて家と畑。今立っている道にしたって、隣は畑なのだ。そのなかで、箱屋さん夫妻がちらちらとこちらを見やりつつ、仕事にいそしんでいる。
あの白い玉が、
本を読み聞かせては木の実を集め、本を読み聞かせてはおしゃべりをし、三日かけてペブルが聞いてきた事には、せいをもらった森の淑女はみんな、森で一番高い木に登って花に、そして種になるのだという。
先々週の
「裸の女が嬉々として
「それずっと下から眺めてたのかよ」
「魔法使いの責務だろ。そういやこんな事言ってたな。月の位置が気に食わないから、北からこっちまで流れて来たんだとよ。お
「発表ったって、俺、学院卒業してないから呼ばれないよ。でも、月か。暦によって移動でもするのかな。別の森に移動できるっていうのも初耳だし。どうやって動いたのか言ってた?」
「徒歩だと」
「なんか普通だな」
「がっかりしてんじゃねぇよ」
ここまでが先々週の話。
昨日、アードンさんの「端っこの家」から帰る途中に、
「風と森がらみの奴らが集まってたからな、なんかあるとしたら今日なんじゃねぇかと思ったんだがよ」
「なにも起こりませんねぇ」
ちょっと退屈したように蛙が言って、それにアルルが続いた。
「あんまり遅くなりたくないし、俺、そろそろ行くよ」
「そうか。オレぁもちっと見てくわ」
そう言ってペブルは畑の柵に腰掛けた。
「お気をつけてぼっちゃん。猫、くれぐれも坊ちゃんにご迷惑をかけぬよう」
「へいへい」
蛙がヴぅと喉を膨らす。「はいホップさん」なんて言ってやらないからな。
「じゃ、親父、ホップ、行ってくるよ」
「いってきまー」
「おう、行ってこい」
「行ってらっしゃいませ坊ちゃん」
息子の背中が遠ざかるのを見送り、ペブルはまた南の綿毛に視線を戻した。風にそよいではいるが、遠目にはなにも変わらないように思える。
「
と旧知の相棒が肩から話しかけてきた。
「なんでぇ? 改まって」
主さまと呼ばれはしても、よろしいですか、などといちいち断りを入れるような仲ではないのだ。
「坊ちゃんにもそろそろ、きちんと、全部話してやって良い頃合いではないでしょうか」
全部。
ペブルは深く大きく唸って答える。
「それなぁ。オレも悩んでんだよ。あいつの産まれがどこかなんて、今更言わなきゃならんかな。アル坊はララカウァラが故郷で、俺の息子ってのが事実なんだ。兄上が認めてくれりゃあ今に、書類の上でもそういう事になる。俺が墓場まで持ってきゃいいことだぜ」
綿毛を眺めたままペブルは答えた。
「私は、事実を知っても、坊ちゃんは何ら変わりなく主さまの坊ちゃんだと思いますがね」
魔法使いは額に手をあて、指をぱたぱたとさせる。
「……
「なるべく、お早めにお願いします」
相棒がそう言いたくなる理由はわかっていた。
「それから、坊ちゃんとあの猫についてなのですが──」
ホップが別の議題を持ち出したのを、しかしペブルは手で制する。
南の森で木々が一斉に揺れ始めたのが見えた。さざ波のような震えがアカマツへと集約され、昇り、ぴたりと止まる。
間。
「……あん?」
とペブルが待ちきれずに声を出したのと同時に、綿毛が一斉に吹き上がる。
青空に新しく雲が沸いたように見えた。まっすぐ舞い上がった綿雲は、渦を巻きながら漏斗の形に開いていく。
木々のさざ波が先ほどとは逆に広がって、森を抜け、次第に野原の草や畑の麦へと伝わっていく。
萌葱の
「ははっ!」
ペブルが思わず笑い声を上げた。ララカウァラの誰もが手を止めて空を見た。いよいよ眩しさを増す四月の空を、羊の群れが如く
ペブルの足元を草走したちが駆け抜けた。
ぼっ、と唸りを上げて風が抜ける。
「こりゃ壮観だぁ」
空
「見送りぁお
父と蛙の見送った綿毛は風に乗って広がり、息子と猫の見る空にも間をおかず届く。
「飛んだんだな、
かすむ空に、もう少し待てば良かったかな、とアルルは思う。
「どこまで飛ぶのかな。あれが全部モッサになるのかな」
わざわざ道の先まで走って仰向けになったヨゾラが言う。
「どうかなぁ? あれ全部が
「モッサモサ」
「やかましい」
突っ込んでやったら、ヨゾラはからからと笑い声をあげた。いつの間に
精を受け取り、花になり、種が飛んで、あの森にあの
「あ、一個おちてくる」
仰向けのままでヨゾラが言った。確かに一つ、ゆっくりと降りてくる。アルルは数歩追って、掌で受けた。
人指し指ほどの大きさの、重さをほとんど感じない細長い種。細く弾力のある糸でこぶし大の綿毛につながっている。
杖を放っぽって綿毛に触ってみたら、すべらかで、
「ね、見せてよ」
ヨゾラが起き上がってふくらはぎを押してくる。種を見せようと屈んだ瞬間、ひときわ強い風が吹いた。
「あーーーー!」
ヨゾラの不満げな声を聞きながら、アルルは掌から飛び去った種を目で追いかける。
「ヨゾラ」
「なにさ」
「あれも、親父の子ってことになるのかなぁ……」
「知らないよ。あたしも見たかったのに」
「悪かったって」
視線をおろすと、連れはずんずんと道を先に進んでいく所だった。
「ヨゾラそっち違う。分校。ここ左だ」
放った杖を拾って声をかける。
黒猫は無言で戻り、前足で魔法使いの靴を叩いた。
「こっからずっと道なり。今日は野宿になるぜ」
また、一歩目を踏み出す。
「へーい。ファビ姉からもらったおべんとうはいつ食べるの?」
「まだ昼には早いよ、いただき猫」
「あと、おばさんがくれた包みもいい匂いがしてたよ。鞄の中?」
「あれはフラビーんだ。ちょっとでも喰ったらお前、もう鞄の中に入れないからな」
「ちょっとぐらいいいだろ? 果物をほすとどうなるか知りたいんだよ──」
そんなおしゃべりを繰り返しながら、魔法使いと黒猫はウ・ルーを目指して西へ向かう。
綿毛もすっかりどこかへ飛んで、流れて行くのは雲ばかりだ。
<いろいろあるよねララカウァラ 了>
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