第34歩: エレスク・キーミカ
「エレスク・キーミカ この先」
目抜き通りには入らず、堤防の広い道を歩いて行くとそんな立札が立っていた。雨風にさらされてだいぶ古ぼけている。
どの屋根も赤く、河に向かってきつく傾いているので、雄鶏のとさかが並んでいるようにも見える。建物の口は河に面していて、人が出入りしては舟に荷を渡したり、手押し車で何かを運び込んだりしていた。
あの中に、ピファの父親もいるんだろうか。そんなことをアルルは思った。とさか屋根の後ろには大きな倉庫のようなものがあり、さらに後ろに二階建ての建物が続く。
工場の全景が見えるのは、周りよりも土地が数段低いからだ。その敷地を囲むように盛り土がされていた。
道すがら、ドゥトーが言っていた。
盗まれた魔法陣の中に「エサ」、つまり追跡を行うための細工をした陣を紛れ込ませたと。
ウーウィーに持たせて、次に同じ目にあったらそれを渡させるつもりだったと。そうやって誰の手元に魔法陣が渡るのかを突き止め、この件を根元から断つ手筈だったのだと言う。
ウーウィーがまた絡まれる前提なのはどうかとアルルは思ったが、兎にも角にもそれが功を奏したと考えて良いのだろう。
「あれがゴーガンの工場だ。エレスク・キーミカ社」
馬の上からドゥトーの声がした。手綱は、
部下の警邏は強盗の手配のために戻っていった。
ウーウィーとギデは連れてこなかった。やはり師匠の「遺体」を見たのは堪えたのだろう。ドゥトーは顔色の悪い二人の、血で汚れた服をきれいにすると──つまり、汚れだけを燃やすと──しばらく休んだら帰っていいと伝えて、その場を後にした。
そしてドゥトーが目指した行先はしかし「狩り場」ではなかったのだ。
森の持ち主に話がある。
そうドゥトーは言っていた。
「へーっくしゅん!」
ヨゾラが今日で何度目かのくしゃみをした。風は山風、上流から。エレスク・ルー特有のツンとする
「大丈夫か?」
杖を繰り出しながら、アルルは足元の黒猫に声をかける。
「なんか、このツンとする臭いダメみたい。アルル、こういうの何とかする魔法ないの?」
ヨゾラが鼻声でそう言った。
「硫黄の臭いがダメなのかもしれんの」
ドゥトーが馬上から振り返ってそう言う。
「いおう?」
アルルとヨゾラの声がかぶった。
「火薬の原料だよ。硫黄と、木炭と、硝石を混ぜてつくるらしい。上流に硫黄の鉱山もあるから、河沿いだと嬢ちゃんには臭いがきついのかもしれん」
「んー、なんとかできるー?」
切なげなヨゾラの鼻声に、ドゥトーは残念そうに首を横に振った。
アルルはヨゾラと目が合って、やはり首を横に振った。
「えくしゅん!」
「しかし可愛らしいクシャミですな」
警邏長が手綱を操りながらそんな感想を述べたが
「うれしくないよ」
とヨゾラに返されていた。
「ヨゾラ、中、入るか?」
なんだかかわいそうになって、アルルが背中の鞄を指さす。
ヨゾラは頷き「アルル、拾って」と短く言うなり、ばっ! と跳びあがった。
「おおっと!」
驚くような跳躍だった。胸の下あたりでその小さな身体を受け取る。
「さっすがっくしょん!」
小気味よい調子で鼻水を飛ばされ、アルルは文字通り閉口した。
「腕伸ばして。上、歩くから」
無言で腕を水平に伸ばすと、ヨゾラは器用に体の向きを変え、腕を伝って肩を越える。そのまま鞄の中に潜り込んだ。
「どうだ?」
と袖にかかった鼻水をつまんで取りながら声をかけると
「ちょっとはマシ……っ」
と、くしゃみをこらえた返事が来た。
盛り土を欠いて作られた木戸の脇に、門番の掘っ建て小屋があった。
「警邏長さん? それに魔法の旦那も。いったい何の御用で?」
銀髪を短く刈り込んだ男が小屋から身を乗り出して訊いてくる。
ドゥトーが事情を説明しているあいだ、アルルは周りを見回す。工場は市街地からは少し離れたところにあるようで、お
お社裏手の河沿いにいるんだな、とアルルは場所を把握する。逆光に目を細め、北向きに建つお社は珍しいな、などと思った。
門番は門を開けるのを渋っていたが、警邏長に押し切られた。
大人四人がその坂を下っていく。春の陽はだいぶ高い。
「しかしお昼までには話をつけたいところですな」
と警邏長が簡素な
厩番が手綱を受け取りにくる。他にも何頭かの馬が干し草を
目指す建物はくすんだ煉瓦の二階建て。ドゥトーの家と同様、石段を登って二枚の扉を通ると小ぶりの広間に出た。
奥の壁に「エレスク・キーミカ」と飾り文字で彫られた額板が掲げられている。
「こんにちは。どういったご用件でしょう?」
その額の下に机を並べて、女性が二人いた。
こりゃ大変だ、とアルルは思った。
アルルの鞄の中、ドゥトーと髭のおじさんが、シャチョーに会わせてくれ、とか言っているのが聞こえてくる。
シャチョーはタボーだからおやくそくがなければ、とかなんとか言われている。
中に入ったら鼻がムズムズするのもほとんどなくなったので、ヨゾラはひと心地つけた。
いおう、だったっけ。なんだか知らないけど、今度あったら見てろよ。
ドゥトーや髭のおじさんの他にも、いろんな方向からいろんな声や音が聞こえてくる。やれ、ノーキがどうしたとか、舟のテハイがどうとか、炭のセイサンを上げないと、とか。
困ってたり、ちょっと怒ってたり、しかし、どの声も元気のある声に聞こえた。そもそも、ここは何をする所なんだろうか、とヨゾラは考える。
仕事ってやつか?
食べて、寝て、食べて、寝て、運がよければ子どもを産んで、食べて、寝て、死ぬ。生き物はみんなそうだ、それぐらいならヨゾラにもわかる。食べて、寝る所まではやっている。
子どもは、よくわからない。
死ぬのはイヤだなと思う。
ヒトがやる事は、いつも不思議だ。食べ物を育てるのはわかりやすいし、すごいなと思う。育てた食べ物を食べないで、売るとかいう事をするのはとても不思議に思う。売るとか、買うとか、どうやったらそんなこと思いつくんだろう。
いま、アルルたちがやろうとしていることも、不思議だ。泥棒を捕まえようとすると、他のヒトが助けてくれるのだ。ヨゾラも食べ物を取られたら取り返しにいくけれど、誰も手伝ってくれたりなんかしなかった。
知らない事、いっぱいあるなー。あとで教えてもらおう。今日寝る前か、明日の朝か、どっちかゆっくりおしゃべりできる時に。
ドゥトーとおじさんと女の人とで話は続いている。シャチョーがタボーの人はなんだか困っていたようだったが、髭のおじさんが怖い感じで押し切った。
鞄がまた揺れ始める。揺れ方が変わったのが気になって、ヨゾラは外に顔をだした。
階段を上っている所だった。
ドゥトーが一番前。髭のおじさんと、最後にアルル。
どこか前の方から知らない声が漏れ聞こえてくる。
ヒトの男、二人分だ。階段を上りきって進むに従い、だんだんはっきり聞こえるようになる。
──口の聞き方を知らない従業員をちょっと脅かしただけですよ父上。それを彼らが大げさな噂にしたのでしょう。そんな連中、懲罰の対象にしてしかるべきではないですかね。
──ユニオー、お前はまだわからないか!
──わかっていないのは父上でしょう! なぜ平民出の従業員なんかに媚びるのですか!?
「待て、ユニオー!」
ばたん!
扉から、誰か出てきたようだった。
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