第66歩: 黒い海を眺めて思う
こんな具合だ。
「魔法使いだか何だかしらねぇが出航のクソ忙しい時にとんでもねぇ乗り方しやがって! 乗船券がなけりゃ海に放り出してたぞ若造!」
出航が予定より早くないかとアルルが言い返していたけれど、船長とかいう人の迫力と、その手に持った時計を相手にして言い負かされていた。
そうはいっても客なので、怒られた後は甲板下の共同船室に通される。
低い天井、壁には木製の突き上げ窓。
往還船はずいぶんと空いていた。
「ねー、アルルー、上の方連れてってよー」
「……お前ひとりで行けばいいだろ?」
上からふてくされた声が返ってくる。
お決まりの「猫が!」のやりとりが一段落したら、魔法使いはさっさと吊り床の上に寝てしまったのだ。
何度か頼んでいるのに、起き上がってくれない。
「なんだよ、怒られたから怒ってるの?」
「うっさーい」
吊り床の底がもそもそと動く。たぶん、いま背中を向けた。
「あーっそ。じゃあいいよ」
その背中に向けて言ってやった。部屋の扉も開いているのだ。それならひとりで行く。
共同船室を出て、あたりをうろつく。船は揺れにあわせて軋みをあげる。上下左右、あらゆる方向への揺れ。緩やかに、時折大きく。
この揺れ方にヨゾラは覚えがあった。
狭く、真っ暗な箱の中の嫌な思い出。
あちこちに身体をぶつけてひどい目にあった時の揺れ方に似ていた。
あれも、船だったのかな。
上からごっごっごっと人が歩き回る足音がする。
天井には格子になっているところがあって、そこから外の光がさしていた。
──舵そのまま、船尾
──船尾縦帆、ひらけー!
号令でまた、ごっごっごっ。続いて、がらがらがらと何かが回る。
薄暗い甲板下の廊下に漂う、形のあいまいなものたち。壁には足の長い虫が羽根をふるわせ「ぎしっ、ぎぎっ」と軋みの音で鳴いていた。
それらを横目に、船内階段を猫は登る。瞳孔が縮まる。甲板に開いた四角い穴から見える、無数に交錯する綱、そびえ立つ帆柱と灰色にはためく巨大な布、その向こうの灰色の空。
濃さの異なる灰色が揺れあい、重なりあっていた。
揺れる。
おっととととと。
落ちそうになって階段に爪をたてる。
持ち直して階段を登りきると甲板に出て、大きくぐるりと板壁が甲板を囲っていた。
白字に青の水夫服を着た男たちに混じって、船の乗客の姿もある。他には、河で見たような小舟、黒光りする大砲、綱、綱、綱、箱、箱、箱。
海は、板壁が邪魔でさっぱり見えない。
アルルの肩からならよく見えたと思う。
まぁいいや。木箱が相手なら爪もたつだろ。
足元の揺らぎに左右へとてとて流されながら、ヨゾラは適当な木箱に跳んだ。爪を立ててもうひと跳び。
「なんだぁ? 猫?」
と後ろから聞こえたけれど振り返らなかった。
広い。
目に見える端から端まで、邪魔するものがなにもない。ただひたすらに広くて、自分の身体が頼りなくふわふわと感じる。
これが、海か。
ひとときもじっとしない、でこぼことした水の平原。
黒い海と灰色の空。空の向こうで雲が切れて、光の帯が海に繋がっていた。
もし、あそこにあたしがいたら。
ヨゾラは想像する。
そうしたら、あたしだけが光るのかな。あたしだけが晴れで、あとは曇りに見えるのかな。
空は雲よりも高いのか。お陽さまと空は、どっちが高いんだろう。アルルは知ってるかな。
あのヒトは海は青いって言ったけど、思ってたのと違うな。黒いな。
あのヒト。肌の色しか思い出せないあのヒト。アルルと同じ色のあのヒト。
「なんだ、人魚でも見えるんか?」
別の知らない声。振り返ると、そばかすのたくさん浮いた、水夫服の男の子がいた。
「にゃー」
アルルもいないので、猫のフリで返す。
「変な鳴き声すんなぁ。まいいや。人魚がいたら教えな。最初に見つけた奴は銀貨四十枚って」
そう言って頭に手を伸ばしてきたので、さっと身を伏せる。
「んーだよ、なんもしゃしねぇよお」
不服そうな少年の声。遮ったのは別の怒鳴り声だ。
「新入り! 何サボっていやぁがる!」
その怒鳴り声に少年は慌てて走っていく。なにかの号令を聞きながら、ヨゾラはまた海へと目をむけた。
海しか見えない。
本当に、北半島とかいうところはあるんだろうか。
このままずっと、海なんじゃないだろうか。
海と空の境目あたりに一瞬、なにか親指の形をしたものがよぎって沈んだ。
それからしばらくして、船が上下に大きくゆれた。
──あ、アルル起きたっぽいな。
そんな気配を感じて先ほど登ってきた階段へ目を向けると、見慣れたヒトがあがってきた所だった。いつもの茶色いコートの裾がばさばさと風に煽られている。
ヨゾラは木箱から飛び降りた。
たくさん聞きたいことがあるぞ。
「船は帆に風を受けてすすむ。帆って、上のアレな?
でっかい布」
頭上を指してアルルが言う。
風に当たりたくなったから、怒るのをやめて出てきたと言う。
「あと、海にも流れがあるらしくってさ。往還船はそれに乗って湾をぐるぐる回ってるって聞いた事があるよ」
「海に流れ? 河みたいに? これ全部が流れてるの?」
木箱の上から問い返す。アルルが額に手をあてた。
「わかんないけど、河とは違うんじゃないかなぁ。とにかく南半島で落とした積み荷が北半島に流れ着いたりするんだ。その流れに沿って港を作ったって聞いたぞ」
「これも、流れてるのか」
ヨゾラは再び海へ目を落とした。波が船にぶつかっては白く砕けていた。砕けた泡から
「海ってずっと動いてるんだね。これって生きてるの?」
「あー、どうだろう。勝手に増えたりはしないから生き物じゃないんじゃないかな」
歯切れの悪い言い方だった。
「でも、クロサァリでたまに海を見てさ。生きてるんじゃないかってのは俺も思った。海自体がひとつの大きなものじゃないかってさ」
「試したヒトいないの?」
「たくさんいたらしいけど、海そのものと通じた魔法使いは記録になかったよ。海にいるもの、たとえばさっきの海竜とか、他にも
「なみわたり?」
「群れで海面を飛ぶ、魚の形をしたものだって聞いてる。ぶつかると船が流されるっていうから、今はあんまり遭いたくないな」
遠く黒と灰色の境目にアルルが目をやり、そう答えた。
あの境目は水平線と呼ぶんだ、と言う。その水平線に見えた親指形のものは知らないそうだ。
ヨゾラの質問はつきない。
そのうち他の乗客や、手の空いた船乗りたちも物珍しさに集まってきて、人魚や海賊の財宝などという伝説めいた話から、それぞれの帆の名前や役割に、大砲の撃ち方なんていう専門的な話まで聞いた。
人が入れ替わり立ち替わり、木箱に座る黒猫を囲んでの講釈、談笑、座談会は日が暮れるまでつづいて、その夜にヨゾラはこんな感想をもらした。
「すんごい勉強になった」
勉強になる、という言い回し自体も今日知った。
「俺も」
吊り床の上から返事が帰ってくる。共同船室は頼りないカンテラが一つ吊されただけで、ほぼ真っ暗だ。
「でもすんごい疲れた……」
「俺も」
「おやすみアルル」
「おやすみ。また明日な」
明けて早朝。
船長はいつものように目を覚まし、いつものように日の出を迎えたところで、時計がずれている事に気が付いた。
時計ってのぁやっぱりアテにならん。
ぽろりとこぼれた船長の呟きを聞いたものは、海風の他に誰もいない。
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