第4歩: たき火のそばで
「キミが、ええと、アルルが怪我をしてたのは確かだよ」
ヨゾラになったばかりの黒猫は、左の前足を付け根からわっしわっしと繕いながら言った。
「でも、なんで治ったのかは、あたしにもよくわからない」
今度は右の前足を繕いながら続けた。
名付け損だ、とアルルは思う。
猫はごろんと転がり、お腹の毛に取りかかりだした。こいつメスだな、とアルルは気づき、その気づきを追い出した。
猫の股間に興味はない。
「わかることはないのかよ」
「わかるのは、キミがおいしかったことだけ」
「からかってるのか?」
アルルは身を乗り出して軽くにらんだ。にらみながら手で耳と鼻を確かめた。
ある、ある、ある。
「ごはんの美味しさに嘘はつかないよ」
と、ヨゾラは前足で顔を撫で回している。
「そういう問題じゃない」
アルルは薪を一本、火に加える。
「美味しかったってなんだ? 俺を喰ったのか? どこを? どうやって?」
問われてヨゾラはアルルに近づき、後ろ足で立ち上がると、その右の脇腹を前足で押すようにした。
ちょうど血が付いていたあたりだった。
「ここの所をちょっとだけね。ちょっと舐め取った」
ヨゾラは前足をどけてその場に座る。
舐めると怪我を治せる猫、ということだろうか。
実験してみるか、とアルルは思った。さっき転んでできた擦り傷が手首にある。
かさぶたになっていたのを剥がすと僅かに血がにじんで、アルルはそれをヨゾラに見せた。
「え、なに?」
ヨゾラが身を引く
「ちょっと舐めてみてもらっていいか?」
「ヤだ……」
「それで傷が治るか試したいだけだ。この傷だけ、ちょっとだけだから、やってみてくれよ」
「……今回だけだからね」
しばらく沈黙した後でヨゾラは言うと「食べるわけでもないのに」とぼやきながら擦り傷を舐めた。
ざりっとした感触と共に、傷が舐めとられた。
白墨を水で拭き取ったかのように、傷がすっきりと消えてしまって「すごっ!」と両者の声がかさなる。
ヨゾラが続けて言う。
「あたし、こんなこと出来るんだ……」
アルルはさらに驚いた。
「自分でも知らなかったのか?」
「だって、やったことないもん」
「自分の怪我は?」
「とりあえず舐めてたら治った」
「やっぱり舐めてるじゃないか。お前すごいな! そんなもの聞いたこともないや」
興奮気味のアルルに、ヨゾラは釘をさす。
「怪我したらあたしに舐めさせようとか、そういうのヤだからね」
「ダメなのか?」
「なんか、そういうのヤだ」
「でも、俺の腹は今みたいに治したんじゃないのか」
「治したんじゃないよ。食べたら治った。あと、おしっこもした」
「おしっ……こ?」
唐突に出てきた単語にアルルは固まる。
「うん。こう、ピュッと。キミの顔のあたりに」
静寂が訪れ、そして控えめに破られた。
「お前かぁ……」
内容をさておいても、ヨゾラは質問には答えるようになった。回答を並べると、こんな内容だった。
「昨日、キミに助けてもらったあと、気になって後を追いかけたんだ」
「大きな、ぱーーーーんって音が聞こえてきてさ。そしたら、キミが下に転がってた」
「もう暗くなってて、キミ以外には誰もいなかったよ」
「あと、くしゃみが出た」
「キミはぜんぜん動かなかったけど、話しかけたら『助けて』ってあたしに言ったんだ」
「そしたら目の前がチカチカっとして、そこからヘンなんだ。なにかぶつぶつ言ったのと、キミを食べた事と、おしっこした事はわかるんだけど、なんでそんなことしたんだろう?」
アルルには全く覚えの無いことばかりだった。
「キミを助けようって思ったのは確かなんだけどねー」
「小便については……!?」
これについてはまだ納得いかない。
「なんだろ、それも直感で。ナワバリにでもしたかったのかなぁ?」
「俺に訊くなよ。普通は木とか石とかじゃないのか?」
「うん。ごめん。ほんとにわかんないんだ」
アルルは両手で額を覆うとため息混じりに
「結局わかんないことだらけか」
と呻いた。そのまま目を閉じ、何度か呼吸を重ねてから、ヨゾラを見た。
話を聞いてわかった事もある。
大きな破裂音、服の前後に開いた穴、服についた血の量。
「たぶん、俺は撃たれたんだと思う」
「うたれた?」
「銃で撃たれた。銃は知ってるか?」
「見たことあるよ。キミたちが鳥とか鹿とか捕るやつでしょ? ヒトも捕るんだね」
「捕るというか、この場合は殺す、だな。食べるわけじゃない」
「ムダじゃん」
「耳が痛いな。ただ俺には、殺される心当たりはない」
「そうなの?」
「そうなの」
アルルは考える。このあたりで山賊だ海賊だという話があったのは数十年も昔だと聞いている。数十年ぶりの山賊かもしれないが、荷物に手をかけた跡もないのは不自然だ。
撃たれる前の事を思い出そうとするが、だめだった。怪我の衝撃で記憶がなくなる、というのは経験がある。小さい頃にアードンさんのロバに蹴られたらしいが、その記憶がアルルにはないのだ。
他の可能性は? たとえば、鹿か何かと間違えて撃たれたか?
アルルの知り合いにも猟師はいるが、みな街道沿いでは狩りをしない。人を誤射しないようにだ。うっかり街道沿いに出てきて、こんな見通しのいい所で人間をうっかり撃つうっかり糞猟師がこの辺に住んでいるとしたら、それはそれで恐ろしい。
あとは、やはり自分を殺そうとした者の可能性。それは誰が、なぜ? 服に付いていた血の量を考えても、あのまま河原に転がっていれば、今頃死んでいたに違いないのだ。
誰だか知らないが、また来るだろうか。
いや、そいつは俺が死んだと思っているはずだ。今夜中にここには来ないはず。
もう出くわさない事を願うが、もしも次に来たなら──手加減はしない。
「どうしたの? 怖い顔してる」
ヨゾラの声で我にかえった。
「ああ、いや。大丈夫だ」
アルルは薪を一本足した。
この「不思議な猫」をみて、もう一つの可能性に思い至る。
「変な事を訊くけど、俺は生きてるんだよな?」
ヨゾラは緑の目を二度しばたいた。
「自信ないの?」
自信の問題らしかった。
「今日は色々あったんで、ちょっと自信ないかな」
「ふーん。あたしとお喋りしてるし、生きてるんじゃない? 死んでたら、あたしは今頃キミを食べてる」
それは、なかなかに衝撃的な発言だった。
「容赦ないな」
「ムダがないんだよ。キミは大きすぎて全部は食べられないけど、美味しいところはちゃんと頂くから」
この黒猫の見た目に、身体の小ささに油断していたかな、と思う。
アルルは自分が既に死んでいて、死後の世界か何かにいる可能性を捨てた。
「お前」
それよりも、もっと確かめるべき点があった。
「人も捕って喰うのか?」
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