事件の日

第25歩: 朝練

 鼻の上がなんだかムズムズする。

 お腹のあたりがキュウウとしている。

 毛布の隙間から、微かに光がさしている。

 ヨゾラは鼻を鳴らして、光の方へ這い出した。寝息を立てるぺたんこ鼻の穴が見えた。

 小さな窓の向こうでは山の端が雲をかぶって、ぼんやりと空に浮きあがっている。

 ヨゾラはしばらくアルルの顔を眺めていた。

 息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて。いったい何回繰り返すんだろう。いつまで繰り返すんだろう。

 いつか繰り返さなくなるんだろうか。

 鼻の上がムズムズした。

 あの夢、ヘンだ。ヘンな気持ちになった。

 ヨゾラはもう少し前にでると、アルルの顎の下あたりに鼻先をすり付けた。少し安心できた気がした。

 ナワバリって、こういう事かな。

 もうしばらく眺めていたら、アルルが目を覚ました。


「起きた」

 とヨゾラは言った。

「起きたよ」

 アルルも言うと、大きくあくびをして体を起こした。

「アルルおはよ」

「おはよう。早いな」

「あってた?」

「あってた」

「やったね」

 そんなやりとりをする。

 アルルはベッドの上に座って壁に体を預けると、目を閉じて大きな呼吸を始めた。魔力が流れるのがわかった。

「魔法?」

 話しかけると、アルルは薄く目をあけてヨゾラを見る。

「毎朝練習」

 短く答えて、目を閉じたままアルルは呼吸を続けている。魔力を取り込んでは体に留め、また吐き出し。アルルの吐き出す魔力には、なぜか食欲をそそる匂いを感じた。

 魔力にも匂いがあったんだ、とヨゾラは思う。昨日のアーファーヤから出た魔力は、なんだか元気になる匂いがした。魔力は空気と違うものと言うのは何となくヨゾラにもわかるが、何が違うのかはよくわからない。

 アルルの真似をして吸い込んでみたが、身体に溜まった感じはしなかった。

「ん?」

 とアルルが眉の間にシワを寄せてもぞもぞしたが、すぐに戻った。背中でもかゆかったのかな、とヨゾラは思った。

 アルルは目を開けて、てのひらの上にテントウ虫ほどの球をだす。「糸」の先っぽについてる球だ。

 その球が「糸」を引いて、フワフワと空中を進んでいく。昨日や一昨日見た時は一直線に飛んでいったが、それに比べると随分とノロノロした動きだ。

 上に行ったり、左に行ったり、丸く動いたり。

 球の後を続く「糸」が、何かを描いている。これも今までのと違って、地面に落ちていかない。しばらくすると、何が描かれているのか見えてきた。

 あ、これ橋だ。昨日渡ったやつだ。

 線一本で、橋の形と、菱形の飾りを描いていく。

 描き上がると、また球を橋の端まで持って行って、赤く光らせた。

 瞳孔がぎゅっと閉まるのをヨゾラは感じる。

「エレスク・ルーの一日」

 アルルが口を開いた。ヨゾラが振り返ると、アルルもこちらを見ていた。目線で「絵を見ろ」と伝えてくる。

 見ると、赤い光がゆっくり弧を描いて昇っていく。昇るにしたがって色も赤から橙、白へとかわる。

「あ、お日さまか」

 ヨゾラが声を上げた。

 光は沈むにしたがって、夕日の色に変わっていき、沈みきった所で光が消え、「糸」で描かれた絵もふいっと消えた。

「すごいねその糸、色んな事できるんだね」

 ヨゾラがまた振り返ると、アルルは胸を張って「にっ」と笑い、

「毎日練習」

 と言った。

 気を良くしたのか、アルルは「糸」を棒みたいにして見せてくれた。

「触ってみな?」

 指先から伸びる細い棒を前足で触ると手応えなくふにゃっと曲がり、離すとまた、びん、と真っ直ぐに戻った。

 試しに噛みついてみると、やはり噛みごたえがない。離すと、びん、と戻る。

「あはは、よわっちいのにしぶといねコレ。どうやって使うの?」

「いろいろとな。夜道で光らせたりとか」

 言いながら、棒の先をちかちかと点滅させる。

「お前は、フィジコの事は知ってたよな?」

「うん。ずーっと前に見せてもらったことあるよ。光と、熱と、力と、音だっけ?」

 その通り、とアルルは言いかけて、言葉を止めた。

「音? 音もできるのか?」

「うん。なんだっけ、確か音って空気の振動だから、その動きをサイ、えっと、サイゲンすればいいんだって。アルル、サイゲンって何?」

 「振動」はどこかで聞いた覚えがあった。ぶるぶるする事だ。

 ヨゾラの質問に、アルルは難しい顔をした。

「再現っていうのは……そうだ、例えばさっきの橋と太陽は、エレスク・ルーの日の出と日の入りを再現したもの。これでわかるか?」

「んー。んー。なんとなく。別に本物じゃなくても再現って言うの?」

「言うよ」

 いま聞いた「再現」の意味を踏まえて、ヨゾラは言い換えてみる。

「じゃあ、えっと、音のフィジコは空気の振動を魔法で作るって事なのかな」

 ヨゾラがまとめると、アルルは少し考えるような素振りをして、突然手を打った。

 ぱん。

 アルルは動かない。

「どしたの?」

「いや、空気を振動させてみたんだけど……」

 アルルはベッドから降りた。

「やっぱりこれだけじゃわかんないな」



 アルルが着替えを終えたころ、扉を叩く音がした。

「あたし、隠れた方がいい?」

 毛繕いのを止めてヨゾラが訊いてくる。

「大丈夫。話はしてある」

 そう言ってアルルが扉をあけると、アルルと同じぐらいの年の男が立っていた。毛織りの服に羽織った裾の長い上着には、青と黄の菱形が縫いつけてあった。

 お社のまつり。つまり、将来の祭司さん候補だ。

「おはようございます」

 と挨拶する。

「おはようございます。なにか、洗濯するものがあれば預かるように祭司から言いつけられておりますが」

「いいんですか? とても助かります。ちょっと待っていて下さい」

 夜着だけでなく、洗濯まで。これはおやしろに寄付を弾まなければならないな、とアルルは思った。

 アルルはいそいそと鞄からシャツなり肌着なりの汚れ物を取り出して、扉へ向かう。

「お礼といっては何ですが少しお手伝いしますよ」

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